映画『トイレのピエタ』は2015年公開の手塚治虫の日記に書かれていた構想を実写映画化した作品です。
監督は松永大司、主演にはRADWIMPSのボーカル野田洋次郎と売れっ子女優の杉咲花を起用しています。
更に脇には大竹しのぶに宮沢りえ、リリー・フランキーと演技力の高い俳優・女優で固める徹底ぶりです。
本作を知った手塚の家族からの評価は芳しくないようですが、作品自体は完成度の高さから以下を受賞しました。
第39回日本アカデミー賞 新人俳優賞
第70回毎日映画コンクール スポニチグランプリ新人賞・男性
第56回日本映画監督協会新人賞引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/トイレのピエタ
物語は余命宣告を受けた主人公園田宏と女子高生・宮田真衣の恋模様を生々しく痛切に描いています。
本稿では主人公園田がトイレに絵を描いた意味をネタバレ込みで考察していきましょう。
またバイクで死ねなかった理由や真衣が死ぬ方法を尋ねた理由なども併せて読み解いていきます。
手塚の構想に沿わなかった理由
本題の考察に入る前に、本作が何故手塚治虫の日記に沿わない物語構成になったのかを考えましょう。
手塚の日記にあった本作の主眼は余命宣告を受けた癌患者がピエタにこだわった理由を描くことでした。
原作の構想では真衣は出てこず、あくまでも園田は一人きりで最期まで向かい合うのです。
手塚は癌の余命宣告を受けた自分が漫画家にこだわる理由を描く自伝にしたかったのではないでしょうか。
しかし松永監督は決して手塚治虫ではないために、自伝という形で伝える手法は使えません。
だからこそ基本の設定だけは借りつつ中身はオリジナルにすることを選んだのでしょう。
トイレに絵を描いた意味
タイトル通り、園田宏はトイレにピエタの絵を描いて、その後静かに息を引き取りました。
なぜ彼はトイレという場所にこだわったのか、その理由をあらすじに沿って考えていきましょう。
浄化と昇天
本編でも語られ手塚治虫の日記にもあったトイレにこだわる理由は「浄化と昇天」でした。
意味を掘り下げると、トイレは排泄以外の目的で行く人がほとんど居ない「汚い」イメージの場所です。
しかし、人間が生きていく上で絶対に欠かせない場所であり、排泄物を水に流して体と心を浄化します。
そしてそれが死と重なることで死を特別なものではなく排泄と同じ日常の一環だと示したかったのでしょう。
その証拠に絵を描いて息を引き取った宏の表情は一片の曇りも感じられない爽やかなものでした。
生きた証を立てたかった
二つ目に宏自身が画家志望でありながら癌によってその夢を断たれてしまったという経緯があります。
だから彼は何としてでも画家として生きることにこだわり、何とか形にして認めさせたかったのでしょう。
その証拠に彼は柄にもなく商店街の窓拭きをしたり、病気で苦しむ拓人という子どもの為に絵描きまでします。
彼が一番恐れたことは死と共に自分の存在が消えて忘れ去られてしまうことだったと読み取れます。
そういう紆余曲折があったからこそトイレに描くことにこだわったのではないでしょうか。
キリストとマリア
そして絵の形に準えるのであれば園田宏≒キリスト、宮田真衣≒聖母マリアであるとも解釈出来ます。
確かに宏も真衣も決して完全無欠の聖人君子ではなく欲望や雑念に塗れた現代の若者です。
しかし二人とも心根は凄く純粋であり、自分と向き合い何のために生きるのかに対して真剣でした。
生きることに絶望した園田宏の人生に最期まで寄り添いキスまでした真衣は紛れもない聖母マリアです。