もう彼女に話しかけてくれる宏の姿はどこにもなく、ただただ無力さに襲われた感覚です。
でもそれを受け入れられる心の余裕はまだ女子高生なのですからありません。
荒んだ家庭事情
二つ目に真衣は家庭事情が悲惨で母からは家事、そして祖母からは介護を押しつけられています。
つまり責任を果たすべき大人の代表である母と祖母が自分に思いっきり甘えているのです。
そんな一分一秒も心が休まる暇も無いままずっと大きな荷物を抱えて生活しないといけません。
くたびれて死にたいと思うのは当然で、だからこそ宏との関係にも執着していました。
宏なき彼女に残されたのはまたもや舞い戻ってくる家庭での地獄の日々です。
自殺願望を抱いたとしても何ら不思議ではありません。
不治の病への憎しみ
三つ目に宏にもいっていましたが、不治の病自体が「ずるい」設定であるわけです。
作劇の問題としても宏を不治の病に設定した時点で死ぬ以外の結末はないことになります。
一つの飛び道具にして麻薬でもあるので、そういう病気によるお涙頂戴への憎しみもあるのでしょう。
メタ的な解釈ですが、真衣を通してそうしたお涙頂戴への反語としたかったとも読み取れます。
だからこそ彼女は決して死ぬことを許されない、死んではいけない人なのです。
死んで何が残るのか?
ここまで考察してきましたが、本作はどうしても“生きる”物語として評価され語られがちです。
しかしそれは裏側に「死」というものがあるからで、死が近くに来なければ誰も”生きる”意味を考えません。
本作が問うたのは「死んで何が残るのか?」という生きることの正反対ではないでしょうか。
人間死んでしまったら、思い出の品も何も形あるものは決して墓場に持っていくことは出来ないのです。
宏が自室のトイレに描いた絵だっていつか建物ごと取り壊されてなくなり何も残らないでしょう。
その時に最期まで残るもの、それは宏が自分の人生を生きて真衣や横田たちと繋がろうとした”思い”です。
“思い”という形なきものこそが死しても尚残された人達の中に残ることを本作は教えてくれます。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
本作は「どう生きるか?」よりも「どう生きないか?」の物語だったのかもしれません。
宏は如何にも余命宣告を受けた人とは思えない程静かで、自分に来た者は誰も拒まないのです。
かといって、運命を簡単に受け入れたわけではなく画家志望の誇りだけは貫きました。
死を間近にして色々手を広げるより自らの誇りに生きた宏は最も格好悪く最も格好いい人です。
そんな人だからこそ真衣も魅力を感じて彼と共に生きようと思えたのではないでしょうか。
「生きようとしない」ことでかえって「生きる」ことの意味を訴える、そんな物語でした