出典元:https://www.amazon.co.jp/dp//?tag=cinema-notes-22
本作は有川浩の恋愛小説『植物図鑑』を2016年に三木康一郎監督が実写映画化した作品です。
三木康一郎監督と渡辺千穂脚本、主演に岩田剛典と高畑充希と非常に充実した面子が揃っています。
ある日冴えないOLと植物に詳しい青年が出会い、同居生活を始める中で奇跡の恋が起こる物語。
一見大人しそうな設定と内容でありながら、完成度は非常に高く以下を受賞しました。
第41回報知映画賞新人賞
第40回日本アカデミー賞新人俳優賞・話題賞俳優部門引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/植物図鑑_(小説)#映画
本稿では樹がさやかに雑草の名前を教えた意味をネタバレ込みで考察していきましょう。
また彼がレシピも置いていった理由や樹が名前しか教えない理由なども併せて見ていきます。
“私”をたどる物語
本作がただの恋愛小説に留まっていない理由は非常に根源的な“私”をたどる物語だからです。
樹とさやか、職業も性格も好きなものも考えているものも全てが正反対で基本噛み合いません。
しかし二人に共通していたのは二人とも「自分らしさ」に苦しんだ人達であるという点です。
樹は訳ありの事情で樹という下の名前以外は教えずプライベートな情報はさやかに教えませんでした。
一方のさやかも不動産で働きながらも自分の居場所を見出せず同僚や上司とも上手く行きません。
そんな二人が恋していく中で自分と向き合い、そして”私”へと辿り着く作りとなっています。
雑草の名前を教えた意味
偶然に出会った樹とさやかですが、二人は「野草狩り」と称したデートに出かけます。
その中で樹はさやかに全ての雑草には名前があることを教えていきました。
果たしてこの名前を教える行為には何の意味があるのでしょうか?
存在を認める
まず名前を教える行為には「存在を認める」という大きな意味があります。
雑草とは文字通り”雑な草”、即ちあってもなくても同じという蔑称になっているのです。
その時点で雑草の存在価値を認めていないも同然であり、無意識の差別になります。
どんな雑草であっても命をもってそこに存在していることは同じなのです。
樹はまずさやかに名前が持つ存在を認めることの大きさを教えようとしたのではないでしょうか。
自分への戒め
二つ目に樹はさやかのみではなく、自分への戒めとしてもその言葉を向けていたのではないでしょうか。
後述しますが、樹はとある事情からさやかに自分の苗字を教えず下の名前しか教えませんでした。
だから名前を教えられない自分と名前を認知して貰えない雑草を重ねていたのかもしれません。
植物への愛着やこだわりが強いのも雑草程度の価値しかない自分の名前を認めて欲しかったのでしょう。
いつかさやかに堂々と自分の名前を教えられるようにしていく決意だったといえます。
雑草からでも美味しい料理が出来る
このシーン最大の意味は二人の刈った雑草などが全て美味しい料理になったことにあります。