幸夫は陽一が交通事故に遭った後父を失うことを恐れた真平にこう伝えています。
陽一君は君たちのことを深く愛してるし、誰よりも心配はしてたと思うよ。不器用だから態度に表せないけど…だから、そんな愛してくれる人を手放しちゃいけない。ちゃんと話し合えばいいよ。じゃないと僕みたいに誰からも愛されない人間になってしまう
引用:永い言い訳/配給会社:アスミック・エース
真平へのアドバイスと同時に自身の振る舞いの愚かさを自分にいって聞かせていたのでしょう。
妻の死と向き合うこと、そして妻と向き合って話し合うことからずっと幸夫は逃げ続けていました。
それが妻の死という最悪の形でその愚行の代償を支払うことになり、彼は一生その罪を背負わないといけません。
その為の覚悟が漸くこの涙をもって固まったといえ、やっと幸夫の人生がまた前向きに動き始めるのです。
妻のメールに怒った理由
そんな人間性が破綻した作家の幸夫ですが、彼は妻の「もう愛していない」というメールを見て激怒します。
確かに幸夫からすれば傷口に塩を塗る容赦のない言葉ですが、それだけでここまで怒らないでしょう。
この激怒の裏にある理由を読み解いていきましょう。
存在価値の否定
彼が真に怒っていたのはメール文そのものではなくメールから感じ取れる「存在価値の否定」ではないでしょうか。
人間はどんなに孤独な生き方をしている人であっても多かれ少なかれ承認欲求を抱えて生きています。
幸夫の場合、その承認欲求を持っていた相手は他ならぬ亡き妻・夏子だったのでしょう。
表向きクールな皮肉屋であり愛人を作って不倫しながらも奥底では誰より夏子に認めて欲しかったのです。
そんな自分の生き様を夏子の未送信メールはばっさりと切り捨ててしまう、それ程の強烈なナイフとなります。
最後まで妻がそのメールを送らなかったことが救いでしたが、幸夫にしてみれば急所を抉られる一言でした。
愛されていないという事実
ここで幸夫は改めて自己評価ではなく他己評価として誰からも愛されていないという事実を突きつけられたのです。
単なる夫婦の愛に留まらず、幸夫が評価されていたのは作家としての才能であり人徳ではありません。
不倫していた愛人にしてもマネージャーの岸本にしても周囲が幸夫に求めているのは「小説家」の津村啓でした。
即ち「虚構」の存在として求められているのであり「現実」の一個人としての衣笠幸夫はどうでもいいのです。
その事実を他ならぬ妻に指摘されたと感じたからこれ以上無いほどの怒りを剥き出しにしたのではないでしょうか。
自己愛だと知るのが怖いから
そしてもう一つ、幸夫はこのメールを読む前に不倫していた愛人を抱こうとして拒絶されます。
間抜けな顔。先生は私も誰も抱いたことはない、いつも自分だけ。さようなら…それだけ言いに来ました
引用:永い言い訳/配給会社:アスミック・エース
そう、幸夫が愛していたのは他の誰でもなく自分であるという、究極の自己愛でした。
愛人に指摘されても幸夫には暖簾に腕押しで全く刺さりませんが、他ならぬ妻からとなると別です。
冷め切っていたとはいえ、一番近い存在で唯一幸夫が髪を切らせていた程心を許していました。
その妻からこういわれれば否が応でも自己愛という自分の欠点と向き合わざるを得ません。
それを知って傷つくことが怖い、即ち誰よりも小心者だったから狼狽えるしかなかったのです。
陽一が妻の留守電メッセージを消した理由
物語中盤、幸夫は大宮一家に散々暴言という暴言を吐いたのを最後に去って行きました。
その後陽一はずっと残していた妻ゆきの留守電メッセージを消去してしまいます。
それまで日課としていたことを突然辞めた理由は何だったのでしょうか?
妻の死を引きずっていると気付かされた
直接的な原因となったのは暴言を吐いた挙句去った幸夫が放った次の台詞でした。
俺はあんたと違うの。夏子が死んだ日、彼女のベッドで不倫してました。俺は彼女が死んでも泣けなかったんだよ
引用:永い言い訳/配給会社:アスミック・エース
如何に自分が悲劇の主人公面をして妻の死を引きずる情けない男かに気付かされたのでしょう。
本当は幸夫こそ妻の死を引きずっていたのですが、深くまで知らない陽一には精神的に強い人に見えたのです。