両者を隔てた真の理由にしてドラえもんとギガゾンビを分けた決定的な差、それは“誕生”と”破壊”でした。
ギガゾンビは亜空間破壊装置で原始時代を破壊しようとし、ドラえもんたちは原始時代の日本の”誕生”に貢献します。
原作・旧作では一設定だけに留まっていた”誕生”がここで物語の核を象徴するキーワードとして浮上した瞬間です。
それが引いてはバトルシーンの決着に現われ、ドラえもんはククルの石槍でギガゾンビを倒し、こういうのです。
偽物の歴史が本物の歴史に勝てるわけないんだ!
引用:映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生/配給会社:東宝
ククルの石槍は旧石器時代の人達が丹精込めて誕生させた本物であり、原始時代の人々の思いが籠もっています。
そのような誕生を象徴する産物に借り物の破壊を象徴する科学技術で勝てるわけがないのです。
非常に奥深い歴史や生命の根源にまで踏み込んだものであることまで示したのではないでしょうか。
ワシと私を混用する理由
ドラえもんのアンチテーゼとして描かれた時空犯罪者ギガゾンビですが、彼は「ワシ」と「私」を混用していました。
ただの偶然ではないと思われますが、何の理由があってこの一人称を混用していたのでしょうか?
人間と神様
まず一つ目の理由としては「ワシ」=「人間」、「私」=「神様」という使い分けではないでしょうか。
ワシという一人称はギガゾンビを演じていた23世紀からの時空犯罪者という一個人を指す砕けた表現です。
一方の私という一人称は神様としてのフォーマルな、悪くいえば堅苦しい表現として用いられています。
仮面をつけてツチダマやドラえもんたちに対する振る舞いでは一貫して「私」の方で通したことからも明らかです。
この人間の時と偽の神様の使い分けという二面性がワシと私を混用する意味だったのでしょう。
ククルとの対比
もう一つは原作・旧作にあったククルとの対比という狙い目もあるのではないでしょうか。
ククルも「僕」と「俺」を使い分けていますが、二人は「ヒカリ族=光」と「暗闇=闇」の対比でもあります。
そして何よりもククルが「過去」、そしてギガゾンビが「未来」という点でも綺麗に対比されているのです。
ドラえもんだけでなくククルを含む複数の隠喩が示されており、それがギガゾンビのキャラをより強固にしています。
原作・旧作では後半殆どスポットの当たらなかったククルを大々的に絡めたことで綺麗に収められました。
仮面による偽り
三つ目にワシと私には「仮面」による偽りという変身ヒーローのアンチテーゼが含まれています。
仮面ライダーや戦隊シリーズ、ウルトラマンなどは変身することで「個人」と「ヒーロー」を分離していました。
ギガゾンビはこの論理を逆手に取って「人間」と「偽の神様」を分離するという意味があったのです。
そしてそれが普段の人間性がヒーロー性に直結している、素面のまま戦うドラえもんたちとの違いとなります。
即ち等身大のまま素を出して戦う覚悟のある者達と仮面で自分を偽った者という違いなのではないでしょうか。
こうした端の要素の組み方までもが綺麗に出来ているのが何よりも素晴らしい所です。
子供と大人
考察を重ねますと、本作はもう一つドラえもんたちとギガゾンビが「大人と子供」の対比でもあることが分かります。
それが上記した「成長と自立」にも繋がりますが、このテーマがどのように本作の物語で汲まれているのでしょうか?
両親達の心配
リメイク版の大きな特徴として、家出したのび太たちを心配する母・玉子達への目配りも欠かせません。
家出によって成長と自立を目指すのび太たちの前を両親達は見守ることしか出来ないのです。