彼は『判らないこと』が大好きなのですが『判らなりことをそのままにする』ことができない性格なのでしょう。
自分が納得するまで観察し見極めようとするその姿勢は彼の作品に見事に反映されています。
庭にある草木にせよ生き物にせよ、日々変化するのですから飽きることも無いのです。
むしろ日々新たな発見があり、そのことを理解しないと次に進めない性格のせいで外に出る時間が無いのでしょう。
秀子がマンションのオーナーに言った『庭がモリの全て』とはそのことを言っているのです。
庭での出来事全てに納得し発見が無くなったとしたら門から外に出たかもしれません。
モリが『仙人』と呼ばれるのを嫌ったのはまだ自分が突き詰めていないと思っているからです。
実はそんなに広くはない庭
最後のシーンでマンションの屋上から熊谷家全体を見渡すカットがありました。
意外と狭く隣家とも近い距離にあったことに驚きます。
日々そこで過ごしているにもかかわらず庭で迷ってしまうモリ。
彼の視点は常にミクロです。落ちていた小石に気づき、昨日より少し伸びた草木に驚くモリがこの庭に飽きることはありません。
物事を俯瞰せず点で捉えることで本質を見極めようとする彼にとってあの狭い庭は果てしなく大きな点の集合体なのです。
何度でも生きたいという言葉の意味
何気ない夫婦の会話の中にモリの思考の原点を垣間見るシーンがありました。
妻の秀子はこの人生は一度で良いと言いますが、モリは何度でも生きたいと言います。
清貧ではあるけれど好きなことだけしかしない暮らしをモリは愛しているのでしょうか。
おそらく彼はそこまで考えてはいません。
モリにとって生きるとは
画家であるモリにとって生きるとは作品のモチーフを探すことです。
モリの画風は無駄な線を極限まで排し、そのものの本質を単純化することで生み出されます。
本質を単純化するためには観察し続け理解する工程が必要です。
しかしモリは『絵を描くために観察している』わけではないでしょう。
草木も鳥も虫も、生き物すべてに興味をそそられるモリにとって人生は一度では足りないのです。
『何度でも生きたい』は『もっともっと知りたい』と言い換えられます。
鳥籠と池にどんな意味を持たせているのか
自由を愛するモリと鳥籠の鳥は一見反するもののように感じますがこの鳥たちはモリの象徴です。
籠に入れられ不自由に感じるのは観ている我々だけで実際に籠に入っている鳥は不自由とは思っていないのでしょう。
秀子が世話をする小鳥たちは日常のモリであり、アトリエの威厳に満ちたフクロウは『画家熊谷守一』の象徴です。
そして池はモリの人生そのものでした。
一点にこだわり続けその先に何が見えるのか知りたいという思いを抱き続けることは並大抵の精神力ではありません。
30年間掘り続けたけど底に少しだけ水が溜まってメダカが生きている池は掘り進めるほど世間と隔絶されていきました。
池を埋めることも『仕方がない』と受け入れる姿勢は二人が味わった子供を亡くすという出来事を暗示しています。