ただ物語はそう単純ではなく、想定外と思われる様々な事態も発生していきます。
旧約聖書における選択の自由
全能者と選択の自由の問題は、実は旧約聖書の解釈を巡って古くから議論されてきたテーマです。
全能の神の前で人の選択にはどのような意味があるのかという問題です。全ては神のシナリオで進むのであれば、人には選択の自由はないことになります。
でもイブは蛇にそそのかされてエデンの園で神に禁止されていた知恵の実を食べるという選択をしました。
イブの行為すら神の想定の範囲だったのでしょうか。
ネオの選択
右のドアはマトリックスのソースに通じており、ネオはマトリックスがリロードすることに手を貸すことになり多くの人類も救われます。
一方左のドアはトリニティを救うマトリックスに通じており、マトリックスはリロードされず、マトリックスにつながれている全人類は全滅します。
まさに究極の選択なのですが、ネオは全人類の救済よりも一人の愛に向けて左のドアを選択したのです。
これまでの5人の救世主のように右のドアを選ばなかったネオはマトリックスの想定外だったのでしょうか。
全ての疑問は第三作へと我々を導いていきます。
バーチャルとリアル
第二作ではマトリックスのバーチャル世界と現実社会の境界が次第に曖昧になっていきます。
現在のマトリックスはこれまで5人の救世主によって5回リロードされた六代目のマトリックスです。
マトリックスはネオのようなプログラムを取り込んでリロードを繰り返すことによって、人間的な不確実性や感情による不安定性なども備えるようになりました。
であれば、人類にとってマトリックスの仮想現実の世界と現実世界との境界はなくなりつつあるのかも知れません。
AIと人類の共存
マトリックスが描く世界はAIが人類を支配する世界です。
もちろん人類はAIに支配されるのではなく、共存する道を選ぶこともできます。
AIはマトリックスのように自らをアップデートする機能を持ち、そのための様々な役割を持つプログラムを配置するでしょう。
でもそのようなAIの基本設計をするのは人類のはずです。我々はマトリックスにならないような、人類と共存できるAIを持たねばなりません。
そして、そのためのアプローチは既に始まっている可能性があるのです。
マトリックス第二作のテーマはリロード
【マトリックス リローデッド】はそのサブタイトルにあるように、リロードが一つの大きなテーマになっています。
マトリックス自体のリロードだけでなく、マトリックスのブログラムの一部であるネオやスミス、ベインなどのリロードも起こるのです。
第二作ではマトリックスを巡る様々な謎の多くが解き明かされていきます。
バーチャル世界と現実世界の境界の問題や選択の意味などの哲学的な問いも発せられ、いよいよ我々を最終章へと導いていくことになるのです。