まず1つ目に、富士山噴火によって賢治と直子の理性(建前)が崩壊しているということです。
富士山噴火により賢治が住んでいる東京は火山灰が降り積もってしまいます。
そして直子も結婚相手と完全に心の距離が離れてしまい、2人を遮るものは何もありません。
2人を縛り付けていた世間の目や体裁などというものが全部吹き飛んでしまったのです。
ここに残っているのは人間ではなく動物としての賢治と直子でしょう。
一線を超える
火山噴火は賢治と直子にとって「一線を超える」ことの証でもあり、ラストでこう口にします。
中に出していいか?
引用:火口のふたり/配給会社:ファントム・フィルム
かなりストレートな台詞ですが、要するに火山噴火を肉体関係の絶頂に準えているのです。
2人が火口付近で体を重ねたこともその前振りとして絶妙な形で機能しています。
男性の絶頂を英語でexplode(爆発する)と表現しますが、そのようなニュアンスでしょう。
2人の関係がここで1つの完成を迎えることを意味していると推測されます。
本性が出る瞬間
そして何よりも、火山噴火は人間の本性が出る瞬間であることを意味しています。
震災がそうであるように、大きな災害が起きると人間は本性を問われるものです。
自衛官のように役目を果たそうとするのか、それとも自分の体に正直に生きるのか。
しかもその選択に絶対の正解はなく、1度選んだらそれに責任を持たないといけません。
極限状態に追い込まれた時にどのような選択をするかで人間力が試されています。
つまり賢治と直子の人間力とは体を重ねて共に生きることだったのでしょう。
心と体に素直になること
本作で描かれる「生きる」とは突き詰めると「心」と「体」に素直になることです。
賢治と直子は互いに不器用過ぎたので、それに気付くのに時間がかかりました。
それは即ち人間の「生」の部分に向き合うということではないでしょうか。
東日本大震災でそれまでの常識や理性といった建前が悉く崩れていきました。
そんな中で自分らしく生きることの大切さを2人は試行錯誤して学んだのです。
そうなっていくまでの過程を描いたのが本作だといえるでしょう。
従属からの解放
本作は物凄くストレートに映画の根源的命題である「従属からの解放」に成功しました。
賢治と直子は物語が進む度にどんどん物語の都合のいい存在から外れていくのです。
ラストでは富士山噴火を前にしても動じることなく自分達の身体に素直に生きています。
賢治も直子もありがちな恋愛感情やヒーローとヒロインの記号で結ばれるのではありません。
あくまでもそれぞれが自主性に基づいて行動し、たまたまその決断が重なった結果なのです。
「従属から外れて自由になること」こそ映画の本質なのではないでしょうか。