自分の人生の引き際は自分で決めたいとどこかで思っていたのでしょう。
それが最終的に自殺という形に繋がったのではないでしょうか。
娘を任せられる
2つ目にあったのは父としてボンドに娘のマドレーヌを任せられると思ったのです。
これは「公」ではなく「私」の部分で、父として娘の将来を心配していたのでしょう。
そこで、娘のことを任せられる相手としてボンドという理想の男に出会えました。
そのことで、父親としての心残りもまたなくなったのではないでしょうか。
面白いのはこの自殺は単なる自己犠牲ではなく、前向きな意味も込められていることです。
ボンドが様々なものを手放したように、ホワイトもまたここで娘への執着を手放しました。
だからこそ、自殺にもかかわらず悲壮感が薄く、自身の意思で死ぬことが出来たのです。
裏切り者
3つ目に、ホワイトはスペクターの裏切り者だったからです。
スパイの世界は鉄の掟があり、それを破ってしまったら生きてはいられません。
毒を盛られたことも根本の原因は裏切り者として組織から追われる事情があったからです。
背景事情がどうあれ、組織の裏切り者である以上は死をもって償う以外にはありません。
しかし、だからといってただ死んだのでは犬死にですから、それを避けたかったのでしょう。
ボンドと出会うことで犬死にを回避し、彼がスペクターを倒すきっかけを作りました。
単なる無駄な自己犠牲にしないのがとても作品として細かい配慮の宿っているところです。
肉親との未練
こうして考察を重ねていくと、ジェームズ・ボンドが手放したものが見えてきます。
彼が手放したものは「肉親との未練」というとてもパーソナルな部分ではないでしょうか。
歴代のジェームズ・ボンドでもここまで個人の過去にフォーカスしたシリーズはありません。
それは一歩間違えると、ジェームズ・ボンドのパブリックイメージを崩すことになるからです。
本作はそのタブーに踏み込み、最後にはそのパブリックイメージですらも捨てることを選びました。
その離れ業を実現するために実に長い年月と作品数を費やす必要があったのでしょう。
別言すれば、本作はジェームズ・ボンドの「死」を意味する作品だったのかもしれません。
実質の007シリーズ終焉
いかがでしたでしょうか?
本作を考察していくと、最後に残るのは本作が実質の007シリーズ終焉を意味するということです。
ダニエル・クレイグ版では本作の後にもう1作作られる予定であるとの噂もあります。
それが真実であれ虚偽であれ、「ジェームズ・ボンド」としての007シリーズは本作で終わりでしょう。
本シリーズは表面上過去の007シリーズへの原点回帰と再構築という要素が強いと思われています。
しかしそれは表向きであって、真相はロングランとなったシリーズに区切りをつけたかったのでしょう。
だから、決して懐古趣味に走るのではなく、前を向いて整理と断捨離を行って手放しています。