表面だけで見ると、葉蔵がリアリストで美子がロマンティストのようですが実態は真逆です。
実は葉蔵こそが理想を体現するロマンティストであり、美子は逆に現実に生きるリアリストでした。
事実、美子は自身の能力の限界や力量不足も承知で、最期は自身の未来を葉蔵達に託しています。
そんな美子の願いを理解して、葉蔵は熱い使命に目覚めて彼女の願いを体現するロマンティストに変わるのです。
つまり終盤になるにつれて、彼は顕在意識ではなく潜在意識にある本来の自分に戻っていきます。
そしてそれは男性=ロマンティスト、女性=リアリストというジェンダーの潜在意識の証明でもあったのです。
葉藏が「恥の多い生涯を送ってきた」と言った真意
終盤に向けて潜在意識にあったロマンティストへと回帰していく葉蔵は自己肯定感の低い青年でした。
自殺までした上に、自身のことを「恥の多い人生を送ってきた」とまで語っていたのです。
ここでは葉蔵がそのように語った真意を物語の流れやテーマと共に解き明かしていきます。
本歌取り
最初に挙げられることとして、原典『人間失格』冒頭の本歌取りであるということです。
作品名で既に本歌取りを果たすだけではなく、骨子の部分にまで原典をきちんと咀嚼・吸収しています。
まず本歌取りをすることによって本作が本格的なポスト『人間失格』だという作品としての宣言です。
本歌取りは現代風にいえばオマージュ・パロディを指し、何かと嫌われる芸風でもあります。
しかし、芸術とは元々模倣から始まるわけであり、本作は芸術の基礎・基本に忠実な作りです。
この本歌取りに対する理解をどれだけ素直に出来るかどうかで評価・解釈が変わるでしょう。
自身の生き様への自覚
本歌取りであることを前提として、葉蔵は自身の生き様が惨めだという自覚があったのでしょう。
彼はいわゆる社会への不平不満とそこから生じる閉塞感を抱えている現代の若者の象徴です。
しかし、その不平不満を何かしらの社会貢献に変える実行力がありませんでした。
だからこそ葉蔵はそんな自身の生き様が惨めだという自覚がどこかにあったのです。
冒頭での自殺はそんな無力な自分に対する苛立ちと葛藤が顕在意識として現われた結果だと推測されます。
皮肉にも彼は蘇生で生き延びることになりましたが、そんな人生に対する悲観・絶望の表れでしょう。
現代の若者の深層心理
そして何よりもここに表現されているのは現代の若者の深層心理だったのではないでしょうか。
本作の世界観では誰もがガスマスクらしきものを身につけていますが、これは一種のペルソナです。
本来の自分を社会に合わせて押し殺し、無批判に奴隷として働く若者の心の苦しみを表現しています。
理想と現実に戸惑いながらも、それに適応出来ず何者でもなかったという現実を自覚する若者たち。
現代社会で働く若者達の多くが鬱病や躁鬱などの精神病にかかる原因も突き詰めるとここにあります。
夢や希望が打ち砕かれ現実を示されても、自分では変えられないという無力感・閉塞感に襲われるのです。
そんな現代社会を生き抜く若者たちの諦観がこの冒頭の台詞1つで表現されています。
何よりもそんな台詞をとうの昔に表現していた太宰治の慧眼に感嘆させられることでしょう。
陰極まって陽となる
そんな本作ですが、原典を踏まえた上できちんと1つの解答を示しています。
それは「陰極まって陽となる」であり、絶望から希望へと逆転していく構図です。
このラストに向けて収束していく物語の流れや構図の意図を読み解いていきましょう。
不死の世界
本作において、何よりも大きく機能しているのは「不死の世界」という設定です。
科学技術の進歩に伴い医療科学も進歩して、人間は自殺でもない限り生き延びること可能になりました。
そんな世界だからこそより深く閉塞感の溢れる社会で生きなければならない葛藤が際立つのです。
不老不死になることがいいのかどうかはこれまで多くの作品で永遠の課題として問われてきました。