残念ながら吉岡の直感はあたっていました。
それを裏付けるように多田から吉岡に一本の電話がかかってきたのです。この電話は多田の勝利宣言のようでした。
杉原の失意
杉原たちの行動や思考は多田には全てお見通しだったようです。
結局は神崎と同じ道をたどってしまう杉原の自分に対する失意は想像以上のものがありました。
吉岡を裏切り、自分自身も裏切るだけでなく、国民をも裏切ることになるからです。
杉原はこの件がなくても日常の自分の仕事に疑問を感じていました。
政権の安定が結局は国民のためになるので、そのために自分たちが手を汚さなくてはいけないという多田の論理にはついていけませんでした。
彼は本当に国民のためになる仕事がしたかったのです。
吉岡が日本の新聞記者になったわけ
吉岡はアメリカでジャーナリストとして過ごしてもよかったのです。
むしろその方が吉岡のやりたいことができたかも知れません。
でも彼女は日本で新聞記者になる道を選びました。その決断のもとは何だったのでしょうか。
彼女には父親が自殺した理由が腑に落ちていませんでした。
父親はたとえ誤報を出したとしても死を選ぶほど弱くはないとわかっていたからです。
おそらく吉岡にとって父親は通常の父親以上の存在だったのではないでしょうか。
彼女は何としても父親の死の本当の理由を突き止めたかったのです。
真実を追究する吉岡のジャーナリスト魂の源はここにありました。
図らずも吉岡はこの件を通じて父親の報道は誤報ではなかったことを多田から知らされるのです。ここから吉岡の新たな戦がまた始まりそうです。
官僚と記者
吉岡は新聞記者として不正を暴き真実を追究する側にいます。少なくてもいようとしています。
一方杉原は官僚として国家の安定こそが国民のためになるという立場で、そのためには世論を操作しても構わないという側にいます。
乱暴にいえば不正を隠蔽する側にいることになります。杉原はそれに疑問を感じていますが立つ位置は変わらないのです。
本来ならばこの両者は相容れません。
この両者が共同戦線を張ることになったのは、もちろん様々な要素があります。
二人が協力し合うことになったのは、結局は真実の追究という普遍的な正義を共有できたからなのではないでしょうか。
【新聞記者】はジャーナリズムの在り方を問う問題作
映画【新聞記者】はジャーナリズムの在り方を問いかけています。
真実を追究するための難しさと重要性を問題提起しているのです。
官僚としては異質と思われるほど反体制的な杉原でさえ結局は元上司の二の舞になってしまいました。
ジャーナリズムが真実追究の矛先を鈍らせれば国民全体が盲目の羊になってしまうのです。
この作品は我々国民の側もまた盲目の羊に甘んじることなく、しっかりと目を開けて真実を見て欲しいといいたいのかも知れません。