その時に彼女はアラーウッディーンの怖さと夫の勇ましさ・格好良さを身にしみて知っています。
それ程の絶望的な状況を味わったからこそ、パドマワーティはより夫への愛が深く感じられました。
この時、彼女の中で夫と共に生きることが夫と共に死ぬことと一体化を果たしたのではないでしょうか。
すなわち「公」の為に生きた彼女が最後で「私」を取ったという驚愕の展開になっています。
表面上破れかぶれの自己犠牲に見えて、実は納得出来るだけの心理描写が隠されているのです。
炎の中に身を投じた意味
パドマーワティは夫の死と共にその体を侍女達と共に炎の中に投じてしまいます。
果たしてここにはどのような意味があるのでしょうか?
アラーウッディーンに触れさせない
1番の意味は上記した通り、アラーウッディーンに指1本触れさせないことです。
炎による焼死であれば、確かに体は完全に消滅し、欠片も残さないでしょう。
もし、それ以外の方法で自決すると、死体としてでも体を触られかねません。
非常にリアルな女性の生理的嫌悪感がパドマーワティにそう思わせたのです。
逆にいえば、彼女はそれ程にアラーウッディーンを毛嫌いしていたのではないでしょうか。
どんな歴史上の偉人であっても所詮は1人の人間ですから、好き嫌いは当然あります。
業火
2つ目に、ラストの炎はパドマーワティにとって業火を意味していたのではないでしょうか。
彼女は聡明な女性でしたから、決して安易な気持ちでジョーハルを決断したわけではありません。
夫だけならまだしも、国共々滅ぼしてしまう選択をその身に課すことになるわけです。
だから、この炎はパドマーワティは自身の罪を焼死という形で償っていることを意味します。
侍女共々付き合わせているのですから、彼女の気持ちはそれだけ罪悪感に溢れているのでしょう。
ラストの苦しそうな表情は何よりも罪の意識で溢れていたことが窺えます。
単純な勧善懲悪ではない
そして3つ目に、本作が単純な勧善懲悪ではないことを意味しています。
表向きはパドマーワティとラタン・シンとの深い愛と悲劇の物語に見えるでしょう。
しかし、敵側に目を向けるともう1つはアラーウッディーンのピカレスクロマンでもあるわけです。
パドマーワティとアラーウッディーンを対比させると「聖」と「邪」に分類出来ます。
彼女がどこまでも気高さや高貴さを貫いた人なら、彼は自身の欲望を貫いた人です。
見方によると、アラーウッディーンの方がとても人間くさくて共感出来るのではないでしょうか。
物凄いスケール感のある大作なのに、悲劇で終わるという所が実に本作らしいのです。
ボリウッド映画はハッピーエンドが売れるという法則を大々的に破ったのが本作だと示しています。
2重の敗北
本作を考察していくと、実は2重の敗北が大枠として描かれていることが分かります。
それはパドマーワティ側の敗北、もう1つがアラーウッディーン側の敗北です。
本作は結果として両国とも敗北となりますが、果たしてこの敗北に何の意味があるのでしょうか?
疑わしきは罰せよ
まずパドマーワティ側に目を向けると、実は序盤で彼らが敗北する伏線が張られています。
そう、ラタン・シンとの初夜を師匠であるラーガヴ・チェータンが覗いていたことです。