第三期BiSが結成されたように、IDOLの代わりはいくらでもいることを大人たちはわかっています。
一方でIDOLを目指す若者たちは死に物狂いです。全てを賭けているといっても過言ではありません。
ここに大きな溝が存在します。もちろん両者とも成功したいという思いは同じです。
しかしながら今をプロセスの一つと捉えられる大人と、今が全てと考える若者たちとのギャップは大きいといわざるを得ません。
IDOLとは
IDOL的存在はいつの世にも存在します。そもそもIDOLとは何なのでしょうか。
なぜ世間はIDOLを求め、なぜ若者たちはIDOLを目指すのか探ってみましょう。
なぜ若者はIDOLを目指すのか
あれほどの赤裸々な姿をさらしてまで彼女たちをIDOLに向かわせるものは一体何なのでしょうか。
TVや雑誌などを飾るきらびやかな頂点を極めたIDOLたちの存在が一つの動機としてあることはもちろんです。
でも果たしてそれだけでしょうか。
甲子園を目指す高校球児たち全員がプロ野球のスター選手を目指しているわけではありません。
彼女たちにとってIDOLは坂の上の雲のようなものなのではないでしょうか。
坂の上に目指すべき明確なものがあって、それに向かって懸命に汗をかいて登っていくこと自体に自分の存在意義を求めているのです。
渡辺も彼女たちにそうあって欲しいと考えているのです。彼は小高い丘であぐらをかいている現在のBiSを認めることは出来ませんでした。
世間がIDOLを求めるわけ
もちろん世間にとってもIDOLは単なる消耗品です。
中には熱狂的なフアンも存在しますが、多くの人にとってIDOLはその時チラッと目の前を横切るだけの存在でしかありません。
でもIDOLに対する需要が尽きることはありません。つかの間でも非日常的な存在がないと多くの人は満足できないのです。
ただ時代背景によってIDOLに何を求めるかは変わってきます。
渡辺たちは時代のニーズとIDOLたちの野心の中間にいて、相互の翻訳者的役割を果たしているのかも知れません。
うまく翻訳できたプロデューサーたちがショービジネスで成功を勝ち取るのです。
そしてこの作業についていけないIDOLたちはこの世界を去るしかありません。
まさに「あゝ無情」なのです。
【IDOL-あゝ無情-】に見る夢と現実
このドキュメンタリーは通常一般には見せないIDOLを巡る現実を赤裸々に描いています。
ここまでの過酷な試練を課す渡辺に対する批判もあって当然です。
でもこの映画の中で彼は一切の言い訳をしていません。ただ、彼女たちの夢と現実をどこまでも忠実に描ききっているのです。
第二期BiSの解散コンサート中にメンバーたちが語るコメントを口汚く罵る彼の表情には、BiSやIDOLを目指す少女たちへの一種の愛おしさが感じられます。