彼は神と契約をすることになりました。救済の見返りとして一定の犠牲を自ら払うことにしたのです。
アレクサンデルは一体何を犠牲にしたのでしょうか。
因みにこの映画のタイトル「サクリファイス」は「犠牲」です。
家
彼は家族と友人たちを家から離れさせ、自ら家に火を放ちました。
アレクサンデルにとって家は妻や家族との歴史が詰まった自分が最も大事にしていたものの一つといえます。
また家は物質的なものの象徴でもありました。彼はこの大事なものを神に献げることにしたのです。
業火にさらすことはキリスト教的には浄化という大きな意味もあります。
言葉
彼にとって言葉は彼自身ともいえます。アレクサンデルは人類を救ってくれるのであれば、今後語ることを止めると神に約束します。
これは非常に大きな犠牲です。彼はこれまでの彼自身を捨て去ることを神に誓ったともいえるのです。
「はじめに言葉があった」という聖書の言葉が物語の中で何度か出てきます。
言葉は人類が神のみ業を自己解釈したものともいえ、神と人、人と人を間接的につなぐものにもなり得るのです。
アレクサンデルはこの言葉そのものが人類の精神性を歪めるもとになっていると考えたのかも知れません。
言葉ではなく魂で直接神や人とつながることを選んだのではないでしょうか。
マリアの癒やし
小間使いのマリアとアレクサンデルが抱き合うシーンは宗教色に溢れています。
この作品は全編にわたって超自然的な描写が全くありませんが、このシーンだけが例外になっているのです。
二人が抱き合ったまま浮遊して回転しています。
このマリアとアレクサンデルのシーンを深掘りしてみましょう。
アレクサンデルはなぜマリアを訪ねたのか
既存の価値観を失った者が向かう方向性にはニーチェに代表されるニヒリズムへの道と神の救済に向かう道があります。
皮肉にもアレクサンデルはニーチェに心酔するオットーにマリアのもとへ行くようけしかけられました。
このシーンでは人類の魂の救済がニヒリズムでは決して得られず、神による救済の道しかないとする監督の強い意図が感じられるのです。
マリアが象徴するもの
小間使いのマリアは明らかに聖母マリアを象徴しています。
キリスト教にとって聖母マリアは単にイエス・キリストの生母というだけでなく、救済の象徴ともなっています。
マリアは人の祈りを神にとりなしてくれる人類全体の母という位置づけなのです。
マリアを媒体にすることによってアレクサンデルの祈りが神に届けられることになりました。
妻への贖罪
アレクサンデルは家を燃やす前に妻に謝罪のメモを残しました。