妻のアデライデはアレクサンデルとの結婚は失敗だった考えています。
愛する人が別にいたにもかかわらずアレクサンデルの強引さに誘惑されたと考えているのです。
このため二人の夫婦仲は芳しくなく、いつも諍いが絶えません。
彼は家に火をかけることによって、アデライデとの関係も家とともに消し去ろうとしたのです。
それは神との契約という側面とともに、妻への贖罪の意味もありました。
彼女の人生を台無しにしてしまったことへの贖罪です。
坊やとダヴィンチの絵
様々な象徴が描かれているこの作品の中で坊やの位置づけは最も解釈が難しい部分といえます。
坊やは何を象徴しているのでしょうか。
また坊やがラストシーンで語る「はじめに言葉があった」にはどのようなメッセージが込められているのかについても見てみましょう。
坊やは何の象徴
坊やはラストシーンまで一切言葉を発しません。アレクサンデルはただ坊やに向かって様々なことを語りかけるのみです。
坊やはアレクサンデルと神をつなぐ装置として描かれているのかも知れません。
アレクサンデルは坊やに語りかけることで全能の神に問いかけているのです。
また坊やは聖母マリアに抱かれるイエス・キリストとも解釈されます。
アレクサンデルが知らずに坊やを傷つけるシーンは十字架のイエス・キリストを連想させるのです。
はじめに言葉があった
「はじめに言葉があった」は聖書の言葉です。
キリスト教でいうところのこの「言葉」は少し深い意味があり、どちらかといえばギリシャ語の「ロゴス」に近いとされています。
全ての理とか神そのものをさしているのです。
であれば坊やが「でもなぜなのパパ」という台詞は何を意味しているのでしょうか。
この台詞には様々な解釈があり得ます。
監督は神による人類の救済とともに、この坊やの台詞で神という存在そのものが持つ根源的な意味をさらに深く問いかけているのかも知れません。
【サクリファイス】は魂救済の物語
【サクリファイス】はアレクサンデルの魂救済の物語であるとともに、人類全体に対して重大な問題提起をしている作品でもあります。
物質的な豊かさを追求する現代社会に精神的な安らぎを得られる未来はあるのでしょうか。
物語の中では顕微鏡と棍棒は何が違うのかと問いかけるのです。
もちろん精神的な豊かさだけで人は生きることは出来ません。