この作品では愛と愛欲も重要なテーマの一つになっています。
クリスのクロエに対する愛とノラに対する愛欲が対比的に描かれているのです。
愛と愛欲の関係を考察してみましょう。
愛欲のない愛
クリスはクロエを妻として愛しています。クロエが象徴するセレブさを愛しているともいえます。
クロエとのセックスはどちらかといえば子作りのための義務のような存在です。決してノラに対するようなどうしようもない愛欲はありません。
強烈な愛欲がなくても愛を育むことは可能だといっているようです。それはキリスト教的な精神性にも通ずるものがあります。
愛のない愛欲
一方でクリスとノラの関係は愛欲に貫かれています。二人を結び付けているものは強烈な肉体的欲求です。
ノラはクロエのように経済性や安寧をクリスに与えることはできません。ノラがクリスに提供できるものは肉体的な快楽しかないのです。
ノラはその現実に忠実です。ある意味ノラは純粋でもあるのです。そこには抽象的な愛を求める姿勢は希薄といわざるを得ません。
ノラは自分の肉体によってクリスをつなぎ止めようとする姿勢で一貫しています。
しかしクリスが最終的に選んだのはノラの愛欲ではなくクロエとの愛だったのです。
もう一つの可能性
このドラマにはもう一つのシナリオがあり得ました。
もしクリスの投げた指輪が向こう側に落ちていたらどうなったでしょうか。
きっとドストエフスキーの「罪と罰」のようにクリスは執拗な刑事の追求を受けることになったことでしょう。
クリスの犯行は決して完全犯罪ではなく、幻影のノラが指摘したように綻びが多数ありました。
その結果クリスの犯罪が明るみになり、女性の敵であるクリスは正当な罰を受けるシナリオも考えられるのです。
セレブは癖になる
クリスは「セレブは癖になる」と言ってはばかりません。
人はひとたび生活レベルを上げてしまうと元の生活レベルに戻るのが非常に難しくなります。
クリスはその真実に正直だったといえます。彼は「人はパンだけで生きるのではない」という聖書の言葉など信じていないのです。
人生のマッチポイント
この作品では表向き人生のマッチポイントとなるのは運の強さだという結論になっています。
それはそれで一つの真実をいいあてているともいえますが、本当にそう割り切っていいのでしょうか。
この作品は人間性復活の重要性や「人はパンのみで生きるのではない」などという一般的なきれい事に対する痛烈な皮肉を突きつけています。
しかしながらこの作品を見終わった後、運だけが人生を決定づけるという決定論的考え方に釈然としない余韻が残るのもまた事実なのです。