何と容易にドイツは怪物ヒトラーに洗脳されてしまったことでしょう。
ひょっとしたらここでいう敗北した男はヒトラーだけのことではないかも知れません。
これまで歴史の中で美化されてきた戦争の英雄たちの多くはヒトラーとさほど大きな違いはないともいえます。
彼らだって人々を扇動して戦争にかき立て、結果多くの大衆を絶望的な地獄に突き落としたではありませんか。
勝者によって書かれた歴史や英雄物語をそのまま鵜呑みにしてはいけないのです。
発情しているメス犬とは
発情しているメス犬はヒトラーのような怪物を産んだ大衆を含む社会全体を指しているのです。
愛国心や薄っぺらい正義感、中途半端なイデオロギーで人は人が殺し合う戦争を正当化してしまいます。
そしてその殺戮を扇動する象徴となるヒトラーのような怪物を次々と産み落とすのもまた大衆であり社会なのです。
気をつけなくてはいけないのはその空気感ともいえます。
議論のすり替えやレッテル張りによって社会の空気は知らず知らず入れ換えられてしまうのではないでしょうか。
発情しているメス犬のように社会は常に悪魔をはらみ得る状態にあることを忘れてはいけません。
シュトランスキー大尉を撃たなかった理由
この作品でシュトランスキー大尉は悪役を絵に描いたような立ち位置です。
特権意識プンプンで、自分の栄誉のためなら部下を犠牲にすることも意に介しません。
そのようなシュトランスキーのために小隊の部下たちの多くを犠牲にしたシュタイナーは当然怒りに燃えたことでしょう。
よくある西部劇のストーリーであれればシュタイナーが復讐のためにシュトランスキーを撃ち殺すところですが、この物語では違いました。
何とシュタイナーはシュトランスキーを自分の部下の小隊だとして、二人で迫り来るロシア軍に向かっていくのです。
これはどのように理解したらいいのでしょうか。
シュタイナーの当初の意図
勿論敗色濃厚な撤退戦の中でシュトランスキーのもとに向かったシュタイナーは部下の復讐に燃えていました。
シュタイナーは自分でも自身を制御できないほどの精神状況だったことでしょう。
戦闘にとりつかれた男
シュトランスキーを発見し彼も死線を突破しようとしていることを知ったシュタイナーは戦闘マシーンとしての自分を取り戻したのです。
彼は基本的に戦闘の中でしか生きられなかったのです。残酷にも戦争は彼をそのような人間に作り上げてしまいました。
シュタイナーは祖国のためにでも、部下たちのためにでもなく、唯々戦うことに生きがいを見いだす存在でした。
彼は部下の復讐を果たす部下思いの小隊長を演じる必要性を感じていなかったのです。
彼はシュトランスキーに武器を渡して即席のシュタイナー小隊を作り上げ、嬉々として銃撃戦の中に突入しました。
馬鹿げているといえば馬鹿げています。卑怯なシュトランスキーは渡した武器でシュタイナーを撃ったかも知れないのです。
でも戦闘マシーンとしての彼の直感はそうならないことを告げていました。
シュトランスキー大尉が副官トリービヒ少尉を取り込めたのは
シュトランスキー大尉は着任間もなく副官のトリービヒ少尉を巧みに取り込むことに成功しました。