大惨事につながっても決しておかしくなかったといえます。
彼は空港に帰還する場合に起こるはずの惨事とハドソン川に着水する場合の危険性を秤にかける必要に迫られたのです。
一人の人間に課せられた決断としては過酷といえば過酷な事態です。
非情に冷酷な見方をすれば、どちらを選択しても大惨事の可能性がありました。
ある意味でハドソン川の奇跡は結果論とされてもやむを得ない側面があったのです。
機長が仲間を褒めるわけ
サリーはなし得た結果は自分だけの力ではなくチーム全体のなせる技だと主張します。
事故後も関わった人たちとの交流を続けました。
彼は1549便のインシデントにおける全ての判断と起こりえた別の可能性を自分一人で受け止めることが出来なかったのではないでしょうか。
厳しいいい方をすれば、仲間たちを褒め交流を続けることで自分の心のトラウマを少しでも軽減しようとしていたのかも知れません。
カクテル「サリー」
サリーは街のバーでウオッカを水で割ったカクテルを「サリー」として売り出すバーテンに遭遇します。
彼の心情は如何ばかりだったことでしょう。
勿論サリーのトラウマなど意にも介していないバーテンは軽いジョークの気持ちだったに違いありません。
ヒーローとして若い女性からキスやハグを受けるサリーの心情はヒーローとはかけ離れたものでした。
アメリカ人は基本的にヒーローが大好きなのでしょう。
でもそのヒーローとなる対象者は生身の人間であり、大衆の期待に応える余裕など持ち合わせていないことが多いのです。
AIと人
AIはどこまで人間に迫ることが出来るのでしょうか。
AIが人間には出来ない大量の情報を処理して、ベストな選択肢を瞬時に導き出す潜在力を秘めていることは確かです。
でも人間しか出来ない論理を超えたいわゆる直感力を、AIはいつか備えることが出来るのでしょうか。
AIが進化すれば全ての乗り物の自動運転が実現し、多数の命を完全に預けられる未来が来るのかも知れません。
そのときはハドソン川の奇跡のような出来事は遙か昔の思い出話になるのでしょうか。
【ハドソン川の奇跡】が描くヒーローの実像
クリント・イーストウッドはアメリカ人が抱きがちな奇跡のヒーロー物語の実像に迫りました。
ヒーローの実像はこの作品のサリーがそうであるように、自分が下した決断に悩み別の未来がもたらす可能性の恐怖にのたうち回っているのです。
人はどこまでも選択から逃げ出すことが出来ません。
そして選ばざるを得なかった結果に対して全てを引き受けられるだけの強さも持ち合わせていない存在なのです。
これだけヒーロー好きのアメリカ人でありながら、その隠れた実像に切り込んだクリント・イーストウッドの洞察力に脱帽せざるを得ません。