それは生きるか死ぬかの瀬戸際の戦いだったといえます。
若い時代のピアフにとって歌とはまさにサバイバル・スキルであり、だからこそ才能が早く開花したともいえるでしょう。
ピアフの愛と音楽の人生は、何とかして生き残るという強烈なヴァイタリティーによってその土台が出来上がったといえます。
最後にたどり着いた神に通じる寛容さ
スターダムに乗って以降、ピアフの歌は歌手のイブ・モンタンを始めとした数多くの恋人に向けられたものだったでしょう。
マルセルの事故死によって、それは普遍的な愛にたどりつきます。映画の最終盤、最後のステージでピアフは「水に流して」を歌います。
それは人生で起こった良いことも悪いこともすべて受け入れるという寛容さを表現したものです。
自分の人生のすべてを抱きしめるその境地は神への愛に通じます。幼少期の彼女は聖テレーズに祈り続けた末に失明を克服しました。
エディット・ピアフの人生とは、神への愛によってグルっと1つの円を描くものだったといえるでしょう。
彼女の愛と音楽とは、本質的に人生を与えてくれた存在に向けられたものだったのではないでしょうか。
ピアフが最晩年に見せた大いなる寛容さは、彼女の人生を最も深くバラ色に染めたものだったはずです。
マリオン・コティヤールの輝き
『エディット・ピアフ~愛の賛歌~』はマリオン・コティヤールという女優を抜きにして語ることはできません。
コティヤールの演技力はピアフの実人生と共に、この映画の中核にあるものです。
悲愴感が軸になったコティヤールの名演
1人の主演女優が1本の映画の価値をここまで高めることは本当にごく希にしか起こりません。
本作を観ればアカデミー賞を始めとした主演女優賞賞・三冠もごく当たり前の結果のように思えます。
コティヤールの演技の一番の魅力はペーソス・悲愴感にあります。貧しい生まれからかピアフは常に卑屈に構えていて、とてもシャイです。
マルセルとの恋の絶頂期でさえ、彼女はどこかあふれるばかりの幸福に引け目を感じているようでした。
一方でパーティになると下町女丸出しで大騒ぎします。ステージに上がると何かが憑依したかのように神々しく堂々と歌い上げます。
コティヤールは口パクだったのですがインタビューではピアフの歌声に身体表現や呼吸感覚を合わせるのに苦労したと語っています。
演技に加え歌唱も完璧にこなしたことが、主演女優賞・三冠という偉業の元にあるでしょう。
見た目のギャップがすごい!
コティヤールのピアフは実際のピアフとは違っているのかもしれません。
そもそも1915年生まれのピアフの立ち居振る舞い方を知っている人はかなり少ないでしょう。
つまり、ほとんどの鑑賞者はこの映画で初めてピアフを見たのです。それでも多くの人は「これはピアフだ」と信じ込まされたことでしょう。
それはコティヤール自身「私がピアフだ」と心の底から言い聞かせて演技をしたからかもしれません。
彼女がピアフを演じたのではなく、ピアフが彼女になったのだ。そうとすら感じさせるすばらしい演技でした。
さらに、実際のマリオン・コティヤールと小柄で悲愴感ただようピアフには見た目で大きなギャップがあります。
コティヤールはフランス映画『Taxi』でブレークしましたが、前情報なしにその役とピアフが同一人物だと気づく人はいないでしょう。
本作までコティヤールはセクシーな美女役の多い正統派女優でした。
つまり日本の映画界でいえば、長澤まさみが美空ひばりを演じるようなものです。「いやそれはいくら何でも」と思う人もいるでしょう。
しかし2008年のアカデミー賞授賞式で純白のマーメイド・ドレスに身を包みオスカー像を掲げるコティヤールの写真を見てください。
そうすれば、これが決して大げさな例えではないと分かるはずです。