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1984年に公開された『アマデウス』は、映画史にのこる傑作のひとつです。
アカデミー賞では8部門を受賞し、それ以外にも数々の賞を受賞しました。
『アマデウス』はもともと舞台で上演された作品です。
戯曲を書いたピーター・シェーファー自身が映画のために脚本として書き直し、ミロス・フォアマンが監督したのが『アマデウス』でした。
天才モーツァルトの生涯をライバルであるサリエリの視点から描いたものが本作です。
この作品は史実とフィクションが織り混ざっており、批評家やモーツァルト愛好家から多くの批判もありました。
しかし、「新たなモーツァルト象の確立」と「忘れられていたサリエリの再評価」という点からみると歴史的に意義深い作品でした。
神に愛された男
ラテン語で「神に愛された男」という意味をもつ「アマデウス」。
その名のとおり、モーツァルトは神童ともてはやされ、その音楽は「天上の音楽」と称されました。
しかしその神業ともいえる才能に反して、モーツァルトの品性は下劣だったというコントラストを映画は強調しています。
モーツァルトは実際に映画のような人物だったのでしょうか?
史実と脚色、どちらなのか気になる部分をピックアップして検証してみます。
モーツァルトの笑い声
モーツァルトの甲高い奇妙な笑い声は、聞く人をぎょっとさせ、居心地を悪くさせるようなものでした。
映画のラストはモーツァルトの笑い声で締めくくられるほど、モーツァルトという人間を象徴していた笑い声。
実際のモーツァルトは、こんな笑い声だったのでしょうか?
実は、それをある意味で事実だと裏付ける証拠が残っています。
ある女性の手紙です。その女性は従姉妹にあてた手紙のなかで、「モーツァルトの獣のような笑い声をきいて気絶した」と書いているのです。
監督がイメージした笑い声と脚本家がイメージした笑い声は違っていたようですが、いずれにしろ奇妙な笑い声だったことは事実であるようです。
モーツァルトの下品さ
人前でおならをしたり「大理石のうんこ」と皇帝の前で言ったり、幼稚な下品さが映画では描かれていましたが、これは事実でしょうか?
残念ながら事実です。
さすがに皇帝の前で「うんこ」と発言したのは脚色ですが、モーツァルトは従姉妹にあてた手紙で「うんち」だの「お尻」だのさんざん書いています。
また、「僕のお尻をなめて」というのタイトルの曲も書いています。
パブロ・ピカソは「こどもは誰でも芸術家だ。問題は、おとなになっても芸術家でいられるかどうかだ」と言いました。
モーツァルトは子どもの感性を持ち続ける稀有な人物だったということですね。
モーツァルトの最期は事実?
たとえ下品で幼稚でも、モーツァルトは偉大な作曲家であり、当時もその才能は知れ渡っていました。
では、モーツァルトは本当にあんな哀れな最期を迎えたのでしょうか?
モーツァルトの最期は、コンスタンツェが目をはなしてサリエリと口論している間に、いつのまにか亡くなっていました。
ぽかんと口をあけて、目もぼんやりと開いたまま、なんとなく間抜けな顔で……。
葬列には数人しか集まらず、墓地まで見送る人はおらず、穴のなかに無造作に放り込まれ、他の死体と見分けがつきませんでした。
世紀を代表する稀有な天才作曲家モーツァルトは、本当にこんな惨めな最期を迎えたのでしょうか?
レクイエムの謎
また、映画ではサリエリが仮面をかぶって死者に贈るミサ曲「レクイエム(鎮魂曲)」の作曲を依頼していました。
そしてモーツァルトを殺し、彼の葬式の日にその曲を自分の作曲だとして披露する計画を立てていました。
サリエリ扮する謎の男にレクイエムを依頼されたモーツァルトは、その男を死神だと思い込みます。
そして死神が自分を殺そうとしているのだという恐ろしい妄想に支配されます。
無理がたたってモーツァルトは「レクイエム」の作曲中にそれを完成させることなく息絶えました。
非常にドラマチックで劇的な最期ですが、これは映画の脚色でしょうか?
重要な部分なので、詳しく見ていきましょう。
モーツァルトの死因
史実によると、モーツァルトの実際の死因はよくわかっていません。粟粒熱やリウマチ熱という説が有力なようです。