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【終電車】仏映画の真髄を感じさせる男女三人の複雑な関係とその心理を徹底解説!ラストシーンのその後には何が待っているのか?

出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00LUJ3BKQ/cinema-notes-22

フレンチ・ヌーベルヴァーグの旗手、フランソワ・トリュフォー

彼が当時個人的に恋愛関係にあったといわれるカトリーヌ・ドヌーヴをイメージして作った作品が「終電車(Le dernier métro)」です。

製作当時30代後半に差し掛かったフランスを代表する大女優カトリーヌ・ドヌーヴ。

芯が強く、恋に揺れる女心の艶に満ちた演技」が本作の最大の見所でしょう。

1980年のフランスの長編映画である。

セザール賞主要十部門(作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞、主演男優賞、撮影賞、録音賞、編集賞、美術賞、音楽賞)受賞。

 引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/終電車_(映画)

さらにアカデミー外国語映画賞ノミネートされるなど高い評価を受けています。

この「終電車」は、円熟の境地にあった彼が放った、自身フランスでの最大のヒット作となりました。

フランス映画の真髄を感じさせる三人の恋愛模様と、衝撃の結末の意味を考えながら、「終電車」の魅力を探っていくことにしましょう。

タイトルが語る当時のパリ

「終電車」とは何のこと?

本作の原題は”Le dernier métro”(ル・デルニエール・メトロ)。「地下鉄最終列車」という意味です。

映画の時代背景は、ナチ占領時代のパリです。

当時のパリ市民は

Paris Mon Amour ペーパーバック – 2004/6

パリは1940年6月から44年に連合国によって解放されるまでナチスドイツの占領下にあり、夜間外出禁止令が出されていました。

楽しみが減っていく中、パリでは演劇(もちろんナチが許可したもの)が市民の大きな息抜きの時間でした。

観劇の楽しみが終わると彼らは「終電車」を目指し、メトロの駅に急ぐのです。

絶妙な時代背景

 Hypothesis Eiffel Tower And Park, Paris, France Ca. 1909 ホームバスルームとカフェバーパブ、壁の装飾用の30x40cmティンサインポスター ブリキ看板

クロード・ルルーシュの作品では時代設定や、舞台となる場所の設定が巧みなことも大きな特徴といえるでしょう。

本作では、第二次世界大戦の占領下のパリ、というパリジャン、パリジェンヌたちにとって窮屈極まりない生活を背景にしました。

これには恋愛の環境を制限あるものの中において、物語に関わる人々の心の動きを戦争と相互に関連づけさせながら描くという長所があります。

つまり映画の幅を広げる効果を持つのではないでしょうか。

本作で描かれるのはほとんどが室内で、戦闘シーンは無く、市民の中にドイツ将校がいることでドイツの存在を上手く表現。

その分、主要人物3人の心の動きが「濃密」に描かれているのです。

加えてナチ支配下の「閉塞」とパリ開放に伴う「開放」が三人の関係のメタファーとしても描かれ主役らの気分を補強しています。

この辺りの時代設定、舞台設定の上手さはトリュフォーの特徴、武器といっていいでしょう。

フランス映画の真髄をみる

先を予測させない三角関係

Le dernier metro マスマーケット – 2001

フランス映画の、中でもトリュフォーは男女の「三角関係」をテーマとするのを好みました。

突然炎のごとく」や「恋のエチュード」はその代表格でしょう。

その特徴は、観客にラストを予測させない極めて複雑な終わり方唐突感のある終わり方をさせる手法です。

そこにはフランス映画の特徴である恋愛感情の複雑さ、諦観、迷い、大胆さ、意味深長な決断が描かれるのです。

心の動きの深いところを描ききる」という「フレンチのエスプリ」が効いているということでしょう。

フランス映画の真髄を思わせる恋愛の描き方といえます。

本作の「三角関係」

終電車 Blu-ray

マリオン、夫ルカ、そしてその間に入るベルナール。衆目の一致するところは、マリオンの一人舞台という感じで三人の関係は進みます。

ベルナールはナンパ男なのにマリオンにはストレートに愛を打ち明けられない。

劇場を切り盛りする看板女優という立場に気後れしたのでしょうか。

(彼は映画の中で女性に対し「君の中には二人の女性が見える」といいますが、それが彼の結末の伏線になっています。)

あるいはマリオンの女性としての強さに腰が引けたのでしょうか。

一方、マリオンの夫ルカはナチの手を逃れ劇場の地下に潜み、まるで歌姫クリスティーヌを偏愛の中、見守る「オペラ座の怪人」の様です。

彼らの愛の三角関係は常にマリオンに主導されて進みます。想いを寄せるものの今一つ彼女に近づけないベルナール。

地下にいて、妻の姿を見つつ、ベルナールが妻を愛していることに気がつく夫ルカ。

強いマリオンに「愛していればこそ」なのか、身を引く決心を見せる夫や、恋愛における主導権を握られっぱなしのベルナール。

その三人の複雑な関係は、強い女マリオンの勢いを保ったまま、ラストでは意外な展開を見せます。

ここの仕上げ方はまことにトリュフォーらしい構成・演出といえるでしょう。

それは以下のように描かれていきます。

劇中劇を使った最大の見所

Radioscopie: Catherine Deneuve (15 février 1973)

ベルナールを迎えた新作「消えた女」は大成功。その後ゲシュタポの捜査を受けるものの地下の夫は難を逃れました。

その後、ベルナールとルカが初めて対面。その時夫ルカから出た言葉は、ベルナールを驚かせるのに十分でした。

妻は君にほれている。君は彼女を愛せる?

引用:終電車/配給会社:東宝東和

地下にいても、妻が別の男を愛しているとルカは鋭い演出家の視点で理解したのでしょうか。

ベルナールは初めてマリオンの気持ちに気づき、その後二人は結ばれます。

しかし、ベルナールはレジスタンスに身を投じるためマリオンの元を去ってしまうのです。

マリオンの愛の重さを受け止めきれなかったのでしょうか?

一方、ベルナールがいなくなってもマリオンらは代役を立て、地下にいる夫ルカの演出を受けパリ解放まで劇場を続けました。

そしてパリ解放。813日の辛抱を経てルカは久しぶりの太陽降り注ぐパリの街を眩しそうに眺めます。

圧巻のエンディング

トリュフォー流「恋愛精算法」

 

yti 22 洋画映画チラシ「 終電車 」監督フランソワ・トリュフォー カトリーヌ・ドヌーブ
シーンは変わり、マリオンが戦争から帰ってきたベルナールを病院に見舞う場面。

マリオンとベルナール二人の「愛を確認するやりとり」が続きます。

ベルナールはマリオンに夫の元へ帰って欲しいと心に決めたようです。

一方、マリオンのベルナールへの愛は消えていないものの、ベルナールの元を去る覚悟を見せています

と思った瞬間、カメラが引くと、そこは舞台の上

病院での面会というひとつのシークエンスの中で、現実と芝居を連続させ、映画の結末を描き切っています

このシーンは本作の中でのトリュフォー演出のハイライトといえるでしょう。

マリオンはルカを愛しつつ、ベルナールも愛するという結論に向かっての下地が示されるシーンでもあります。

舞台の秘密

さて、どこからがホンモノの病院で、どこからが芝居(舞台上)か分かりましたか?

病室の窓の外に見えるビルの中で動く人に注目してください。

彼らが動いている間は現実、そして書き割りになる瞬間から舞台に切り替わっているのです。

そして、3人はどうなるのか!?

トリュフォーらしいラストカット

Last Metro [VHS] [Import]

そしてラストシークエンス。

病院のシーンで終演となった舞台上。

満面の笑顔のマリオンを真ん中にベルナールとルカが両側から手をつないではさみ、観客の喝采に答えます。

さて、映画を見た方は、この三人の恋愛関係はどうなるのだろう、と思うでしょう。

ハッピーエンドではあるものの、トリュフォーは何故このようなオープンエンドを観客に投げかけて映画を締めたのでしょうか。

三人のその後はどうなるのか

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ここでベルナールが映画の冒頭で使った「君には二人の女性が見える」という言葉が効いてきます。

さらにマリオン主演で夫ルカが書いた舞台の演目が「消えた女」というタイトルだったことも意味を持ってくるのです。

夫ルカはマリオンを「消えた女」として、愛しつつもベルナールの存在を認めた、というわけです。

一方、ベルナールはマリオンに見た「二人の女」の中の一人、つまり彼を愛してくれる女としてのマリオンを引き続き愛していく、ということ。

マリオンはそれらを全部認めて覚悟を決め、劇場の経営もルカに任せることができるようになったと読み解けます。

そうした事情を全て含めての、あのラストの壇上のマリオンの満面の笑みだったと捉えることができるのでしょう。

「終電車」は劇中の主演女優さながらにカトリーヌ・ドヌーヴの「愛にも女優としても強い女」としての女性像が描かれたのでした。

この時期、トリュフォーは「巨匠・重鎮」と呼ばれるようになっていました。

人間の内面を斬新な手法で鋭く切り込んできた円熟の境地のトリュフォーが、この「終電車」で伝えたかった事とは何でしょうか。

それは「愛とは単純なものではない」という彼の得意とする作劇上の結論だったと推察できるのです。

そして当時プライベートでも恋愛関係にあった恋多きドヌーヴに対する溢れんばかりの愛情を強く感じさせる結末となりました。