シャンバーグはプランに許しを請いますが、プランは、二人は兄弟だといってシャンバーグを責めることはしません。
二人は友情を確認し合うのでした。
そして二人の乗るクルマのラジオからはジョン・レノンの「イマジン」が流れてきたのでした。
1980年、シャンバーグは、この映画の原作となった「The Death and Life of Dith Pran」(ディス・プランの死と生)を著します。
「イマジン」
映画のラストに流れるのがジョン・レノンの「イマジン」でした。
この曲は、天国なんて無いんだよ、地上から国という意識も宗教も無くなったらどんなにみんなが幸せか想像して、と歌います。
プランの見てきた地獄を、またそれに象徴される今なお世界のどこかで続いている戦争を、さらにシャンバーグとプランの国境を超えた友情を思う時、この曲は実に心に染み入ります。
プラン本人と演じたニョールのその後
プラン役、ハイン・S・ニョールの数奇な運命
カンボジア人ニョールは、医者であり、1975年から4年間実際にクメール・ルージュに捕らえれて過酷な生活を余儀なくされました。
タイへの脱出もプランと重なります。そうした経緯で映画「キリング・フィールド」に素人でありながらキャスティングされたのです。
彼はこの役でオスカーとゴールデン・グローブの助演男優賞を獲得しています。
全く演技経験のない素人がオスカーを獲ったのは同賞史上2人目のことでした。
白骨遺体が山積みの荒野を歩くプランの姿と表情は実際に過酷な運命を背負って生きてきた人物でなければ出せないものなのでしょう。
まさに鬼気迫る「演技」といえます。
ニョールはその後、アメリカへ。映画に数本出たり難民救済活動や講演をしたりしていました。
しかし、彼は1996年ロスアンゼルスの自宅近くでコカイン欲しさの黒人に射殺されてしまいます。
想像を絶する体験をして生き抜き、自由の地アメリカに来たものの、コカイン欲しさの賊に射殺されるとは何という皮肉でしょう。
彼の数奇な運命を思わずにはいられません。
実際のプラン本人のその後
ニョールが演じたディス・プランというカンボジア人助手は、ほぼ映画と同じような人生を歩みました。
実際にクメール・ルージュに捕らえられて強制労働収容所で囚人のような過酷な生活を4年間送り、タイへと脱出。
その後シャンバーグが働いていたニューヨーク・タイムズで報道写真家として活動します。
一方、カンボジアで起きた出来事を広く知ってもらう運動に精をだしていました。
2008年アメリカの地でガンで亡くなりました。
今なおインドシナ半島は
不安定な国々も
インドシナ半島は植民地時代にフランスやイギリスの支配下となり、その後日本軍の進駐を受け、第二次大戦後民族自決の方向が進みます。
一方で、ドミノ理論から共産化を防ぎたいアメリカ、影響力を行使したい中国など大国の思惑が絡み、ベトナム戦争、カンボジア内戦などを経て民主化が進んだように見えます。
しかし、本作の舞台になったカンボジアを始めミャンマー、ラオスでは依然として不安定さを内包しているのが現状です。
映画「キリング・フィールド」を観る人々に以下のような印象を与えるでしょう。
それは列強・大国の経済繁栄の餌食となった国々の過酷な歴史に、また、その中でこそ育まれた深い友情に想いを致せば、平和への強い希望が生まれる、ということです。