出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00001ZWUT/?tag=cinema-notes-22
映画の世界では戦争映画を語る時「プライベート・ライアン冒頭の20分」という言葉を良く耳にします。
本作が描くノルマンディー作戦、オマハ・ビーチ米軍上陸時の戦闘の地獄のような苛烈極まる描写を表す言葉です。
同時にこの20分の描写を超えることは難しいとの畏敬の気持ちも含まれた言葉でもあったでしょう。
本作以降、戦争の描き方が変わったともいわれる画期的作品となりました。
それがスティーヴン・スピルバーグ監督渾身の戦争映画「プライベート・ライアン」なのです。
・アカデミー賞11部門にノミネートされた。
・監督賞、編集賞(中略)、撮影賞、音響賞、音響編集賞の5部門を受賞した。
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/プライベート・ライアン
本作は戦争とは何か、ということを様々な戦闘場面を通し「個人個人のレベルで理解出来る形」にして私たちに訴えてきます。
スピルバーグが冒頭だけではない凄惨な戦闘描写を通して訴えたかった想いとは何か。
もうひとりの主人公ともいうべき通訳アパム伍長の心変わりの理由などを通して、「プライベート・ライアン」の主張を考察していきましょう。
最大のテーマ
一人の兵卒の命と八人の精鋭の命
本作のメインテーマは、タイトル通り「二等兵ライアンの救出」です。
オマハ・ビーチの激戦を生き抜いた小隊の兵士が「一人の二等兵救出のために八名の精鋭が命を賭けるのか!」
そのように激怒するのは当たり前でしょう。
ここでも先述のように「戦場は個人と個人の命のやり取り」というメインテーマが映画を括る大きな主張として、まず提示されます。
それと同時に組織(国)の命令は絶対、という「個人を認めない」状況も同時に示されるのです。
現場の兵士側のテーゼと、一方で命令(個人の事情による個人の救出)という不条理・矛盾のアンチテーゼ。
この相反する状況を、この映画では冒頭からエンディングまで一貫した主張として描いていきます。
一家に一人となった男子は強制帰国させよ
ジェームズ・F・ライアン二等兵は上三人の兄が戦死し、ライアン家には男子がジェームズしか残らないことになりました。
ここにアメリカ軍の「ソール・サバイバー・ポリシー」という規約がクローズアップされるのです。
本作のストーリーは、ナイランド兄弟の逸話が基になっている。
ライアン二等兵のモデルとなったフレデリック・ナイランド三等軍曹には、エドワード、プレストン、ロバートの三人の兄がいた。
(中略)部隊の従軍牧師から3人の兄全員が戦死したと告げられた。
国防省のソール・サバイバー・ポリシー(中略)に基づいてフレデリックは前線から引き抜かれ、本国に送還されることとなった。
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/プライベート・ライアン
このことからライアン二等兵も、本国に「強制送還」しなければならなくなったわけです。
戦場にあって「個」を認めない状況が生まれていて、片や受けた命令は極めて「個人的事情」に根ざすものでした。
この矛盾。しかし、いかに不条理だと思っても国家の命令は絶対です。
ライアン二等兵救出という戦場の対極にある極めて個人的な問題を戦場でどう解決していくのか。
この課題をジョン・ミラー大尉の中隊に託したスピルバーグだったのです。
苛烈な戦闘描写
なぜここまで描くか
ノルマンディー作戦オマハ・ビーチでの米軍上陸作戦とこれを迎え撃つドイツ軍の地獄のような戦闘。
なぜスピルバーグはここまである意味「残酷」でリアルな描写にこだわったのでしょうか。
戦争は容赦なく、無慈悲で残虐で不条理なもの。
私たちが普通に考える「戦争」「戦闘」というものを思い切り「個人」の問題として映像化するにはどうすればよいのか。
スピルバーグはそれについて徹底的に考えたのでしょう。
その結果、ある結論に到達したと推察することが出来るのです。
戦闘においては徹底的に「個人」を全面に出す。守るべきものが極めて「個人的」なものとしたら兵士はどうなるのか。
そうした中での人間の葛藤を描き出そうとしたのではないでしょうか。
スピルバーグの本作における戦争論
戦争とは結局「個人的な命のやり取り」なのだ、ということ。「戦場では個人の論理」が大きく機能するということ。
国と国がどう戦おうと戦場の実態は「結局は個人の生き死にの問題なのだ」。
スピルバーグは本作の本質として、そう結論付けたかったのではないでしょうか。
この「個」の論理を、詰まるところ一番素直に表現しているのが冒頭とラストの現代のシークエンスなのでしょう。
はためく星条旗と老いたライアン二等兵。星条旗=国家・権力・守るべき組織。