しかし、その本人に裏切られ、彼女を永遠に失うことで、結果ボンドに残されたのがスパイとして生きる道でした。
ボンドにとってヴェスパーとの出会いと別れは危険な諜報員としてではない別の人生へのあこがれを断ち切るために必要なプロセスだったのです。
ヴェスパーの愛がボンドに与えたもの
ボンドと愛し合いながら、結果彼を裏切ることになったヴェスパー。彼女は本当にボンドを愛していたのでしょうか?
そして、彼女の愛がボンドに与えたものとは何だったのか、考察していきます。
オープニングロールに張られた伏線
ポーカーゲームをモチーフにしたオープニングロール。その中で、トランプの女王の顔がヴェスパーに切り替わる瞬間があります。
このとき、彼女の顔が重なるトランプは、ハートのクイーン。彼女がボンドを愛することになる運命を示唆します。
しかし、その対角はスペードのクイーンです。こちらは、彼女がスペード(=剣)を持ち、ボンドにとっての敵にもなることを意味しています。
ヴェスパーの首飾り
ヴェスパーに関わる象徴的なアイテムが、愛の飾り結びのネックレス。
彼女は否定していますが、恋人との思い出の品であることをボンドは見抜いていました。
クライマックスの直前、出かけていく彼女の胸元には首飾りがありませんでした。それまでたとえ着替え中でも身に着けていたにも関わらず…。
それは、彼女の決断が愛のために生きるのではなく、使命のために死ぬことであったためです。
ヴェスパーはボンドを心から愛したからこそ、かつて同じように愛した恋人を裏切れませんでした。責任感の強い彼女であれば、なおのこと。
ヴェスパーには、ボンドと共に過去から逃げても平穏を手に入れられないことがわかっていました。
だから彼女は手がかりを残したうえで死を選びます。結果、ボンドもまた本来の使命に引き戻されることに。
この彼女の死から映画のフィナーレにかけて、スパイとしてのボンドの人生が再構築されていくのです。
007=ジェームズ・ボンド。真の誕生の瞬間はラストに
シリーズものとして高い人気を誇る『007』には、ファンにはおなじみのいわゆる“お約束”があちこちに散りばめられています。
例えば、誰もが聴いたことのあるあのテーマ曲。そして、「The name is Bond. James Bond」という決め台詞。
本作『カジノ・ロワイヤル』では、どちらも最後の最後まで登場しません。
それは、彼が葛藤を抱えているうちは、真に007であるとはいえなかったためです。
スパイとして生きることへの迷い、そして愛する女性との出会いと別れ。
それらを経て007=ジェームズ・ボンドとして生きることを決めた瞬間、晴れて007誕生のカタルシスが訪れたのでした。
苦悩があったからこそ輝く、ヒーローの姿
日の当たる世界への未練を持ちながら、冷徹なスパイになるべくしてなったボンド。その裏にはひとりの男の苦悩、平和への憧憬がありました。
しかし、払った犠牲が大きいほど、得たものは眩く見えるものです。
ボンドの苦悩の深さに比例し、スパイ007は痺れるほどのカッコよさ、輝きを放ちます。
その二律背反性が、この作品により一層の深みを与えているのではないでしょうか。