ヒロが書いた「いけな」という文字はヒロがまだ「公」と「私」の狭間で葛藤している証でしょう。
「公」、即ち「建前」としてシュウには早稲田に行って立派な男に成長してほしいのです。
しかしまた一方で「私」、即ち「本音」としてずっと一緒に居て離れないで欲しいという思いもあります。
簡単にその葛藤に決着をつけることなど出来るわけがありません。
ラストシーンの意味
ヒロの思いは結局最後まで決着をつけることはできませんでした。
ラストシーン、ヒロはシュウにこう主張するのです。
東京に行って欲しくないです。
引用:ハルフウェイ/配給会社:シネカノン
最後の悪あがきとばかりにヒロはシュウの早稲田行きを反対します。
この台詞には最後まで都合のいい物語の道具にならないというヒロの、作り手の強い決意が込められているのではないでしょうか。
ここまで見ていけば、あくまでもこの作品の構造が「物語の途中」=「ハルフウェイ」にあることも自ずと浮かび上がってきます。
どこまで行こうと二人は所詮道半ばの高校生、全てを綺麗事として受け入れられる程まだ精神的に達観してはいないのです。
本心を偽らず真っ直ぐに一人の男・シュウを思い続けるヒロの不器用な恋心が決して消えることはありません。
ヒロとシュウのその後は?
ハルフウェイは文字通り「物語の途中」で、その後は敢えて描かず受け手の想像力に委ねられました。
解釈は多種多様ですが、ここで大事なのはその答えが何であれ、自分の本音にしっかり向き合い、逃げずに立ち向かうことでしょう。
ヒロとシュウの葛藤・苦悩は傍から見ると情けなく格好悪いかもしれません。不器用さ、格好悪さを曝け出しているからです。
しかし、そこから逃げず一つ一つに向き合い、確かめながら進んでいけばきっと後悔はしないはず。
それが何よりも作り手が作品として伝えたかったことなのでしょう。
ハルフウェイの真意
こう見ていくと、「ハルフウェイ」というタイトルの真意も見えくるのではないでしょうか。
タイトル自体は「ハーフウェイ」を北乃きいが素で読み間違えたのを監督が気に入った為という逸話があり、さして深い意味はないのかもしれません。
しかし物語の流れから鑑みると、ハルフウェイの真意は「間違うこと」にあるといえるでしょう。
この世で間違わずに生きられる人間などいません。
ましてや高校三年生は思春期で最も多感な時期、誰もが人生の岐路に立たされる瞬間です。
誰もが間違いながらも自分の道を探して必死に生きています。
人生の過渡期だからこそ「間違う」ことに大きな説得力が生まれるのであり、誰の人生にもその過渡期において「ハルフウェイ」はあるものです。
そんなメッセージを格式高い教訓ではなく、あくまで二人の等身大の高校生の不器用な恋愛を通じてごく自然な日常の営みとして描かれている。