だからこそ、いつも行っている、良く知っているパブを立てこもり場所に選んだのかもしれません。
ショーン最大の試練
親しい人がゾンビになったからといって、心は簡単に割り切れるものではありません。
ショーンがゾンビになった母親を殺さずにすむ方法はなかったのでしょうか。
ゾンビになった母親を殺さなければならないショーンの心情
ショーンは母親がゾンビに噛まれていたことを告げられ、やがてゾンビになってしまう母親に混乱し現実を受け入れられません。
目の前にいる母親は咬み傷以外いつもと大して変わらない様子なのに、確実にゾンビになってしまうのですから無理もないでしょう。
ショーンの心は引き裂かれんばかりに乱れます。
それでも泣きながらゾンビになって自分に襲いかかろうとする母親をショットガンで撃つのです。
ゾンビになったからといって元人間だった者をすぐに殺すことは、心情的になかなかできないのが人間です。
それが家族や親しい人間だったらなおさらでしょう。
自分が襲われるかもしれない危険は重々承知しています。
でも、そのゾンビが自分の愛しい人だったら心情的に簡単に割りきるのは難しいはずです。
人間ではないとわかっているものの、姿形は限りなく生前と同じ姿のゾンビに心が揺らいでしまう。
ある意味、人間として当たり前の感情ではないでしょうか。
殺すことを回避できなかったのか
母親を殺さざるを得なかったのは、ゾンビになった母親が他の人間を殺したり、ゾンビにしてしまう可能性が高かったからです。
では、その可能性がなかったら殺す必要はなかったのではないでしょうか。
ゾンビが人間を襲わないという状況がつくれれば、人間とゾンビが相容れる可能性が僅かながらですがでてきます。
非日常の延長線上にある「日常」
事態の収束は、朝起きてから一日の計画を立てるまでのショーンのルーティンによって、私たち観客にも知らされます。
その様子には平穏な毎日が繰り返されていることが容易に想像できますね。
ゾンビがいた痕跡は残っているものの、ショーンにはいつもの日常が帰って来たのだということが分かります。
やがてゾンビがいることすら慣れてゆき、いつもと変わらない日常になっていくのかもしれません。
最初は非日常だった出来事が、毎日繰り返すうちに違和感がなくなり日常へと馴染んでゆくのです。
少しずつ変化しながら繰り返される日常。
退屈な日々が続くと思わず何かスペシャルなことが起きないかを期待してしまいます。
ただ、それは平穏な日々の上に成り立っているからこその日常なのだという思いが込められているように思えるのです。
気持ちひとつで変化するゾンビ(人間)の存在
ラストシーンでショーンとゾンビになったエドが一緒にテレビゲームをしています。
ここまでの展開からは考えられない状況でしょう。
この状況から、ショーンの空想もしくは夢の中である可能性とゾンビと人間が共存できるようになったという二つの可能性が浮かびます。
もし仮に後者だとしたら。ショーンは一体どんな気持ちで一緒にゲームをプレイしているのでしょうか。
ショーンの中には、ゾンビになってもエドは幼なじみのエドだという感情がありました。
だからこそ、共存することができる可能性があると結論づけられます。
自分に危険が及ばなければゾンビになってもいつもと変わらない幼なじみのエドなのです。
まとめ
ここまで頭の血管を縮めることなく楽しめるゾンビ映画「ショーン・オブ・ザ・デッド」を解説してきました。
人間の気持ちひとつで、ゾンビは恐ろしい存在になったり親しい者になったりするということが描かれた本作。
それは人間がゾンビに対してだけではなく、同じ人間に対してもいえることではないでしょうか。
この作品をゾンビ映画だと思って侮ってはいけません。