大友は義理人情を非常に大切にして動くのですが、それが仇となって組員達を理不尽に失っていきます。
一方石原はそうした義理人情などまるでなく、自分が都合良くのし上がる為にあらゆる策略を張り巡らすのです。
この二人が対極に描かれたことで本作が「旧世代」と「新世代」の相克であるという背骨が浮かび上がってきます。
ヤクザ映画の死と再生
そんな旧世代の象徴と新世代の象徴である二人は別々の道を辿るのですが、ここにもう一つの意味があります。
それは本作がヤクザ映画の「死」と「再生」を描いたものである、ということです。
昔気質のヤクザが作中で衰退していく一方で今時のドライなヤクザが相対的にのし上がっていくというこの構造。
映画史の中でもここは極めて重要な転換点であり、本作の頃にはもう不良文化は存在しなくなりました。
二人の対照的なヤクザの生き様は同時にヤクザ映画自体が完全に時代に残された悲しき産物であることの隠喩でしょう。
ラストシーンを巡って
ラスト、過酷な抗争の末、石原と加藤は山王会のトップにまで上り詰めました。
これが何を意味するのか?またこの結末が何を示すのか?じっくり考察していきましょう。
「損切り」の重要性
石原と加藤、二人の知性派のヤクザが勝ち残った結末の意味、その一つは「損切り」の重要性です。
損切りとは投資において損失を抑えるために株を手早く売却することですが、本作で生き残ったヤクザはこれが上手です。
下手な私情に流されず、徹底してドライに人間関係を見極め、危うくなる前に離れることで石原と加藤は生き延びました。
大友をはじめ本作のヤクザが死んだ理由の殆どはこの「損切り」が出来ていなかったからではないでしょうか。
「華々しさ」と「毒々しさ」の混在
もう一つ注目すべきはその画面が饒舌に語る「華々しさ」と「毒々しさ」の混在です。
石原と加藤が新しく山王会の金庫番と会長に就任した華々しさはリゾートの美しさによって語られています。
しかし彼らが身に纏っているスーツや会話の空気は「死」を連想させる毒々しさを放っているのです。
それは何よりもこの結末が数々の無為な犠牲によって成り立っていることの証左でありましょう。
「束の間の繁栄」と「破滅」
ラストカットが暗示するもの、それは「束の間の繁栄」と「破滅」という絶望的な未来ではないでしょうか。
それもその筈、正当なやり方ではなく残虐な殺人ゲームで組織の新体制が決まってしまったのですから。
どのような組織であれ、世代交代していく上で仕事の引き継ぎと適材適所の人物配置は運営の基本です。
石原と加藤は出世欲と謀略だけで相手を陥れのし上がることしか考えず、この基本を疎かにしていました。
故にどれだけ活躍したとしても、決して安定した明るい未来がないことは間違いないでしょう。
大友の死
「アウトレイジ」において大きく物議を醸したのは大友の死です。