出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/4094804552/?tag=cinema-notes-22
この作品は、2018年9月15日にご逝去された女優、樹木希林さん最後の一年を追ったドキュメンタリー映画です。
希林さんが亡くなってすぐの9月26日にNHKで放送された同名の番組に未公開映像を加えて再編集し映画化されました。
この作品のディレクターであり聞き手でもある木寺一孝監督は、希林さんにとって初めての長期密着取材を許された人です。
その理由は「木寺さんなら」ということでした。なぜ木寺監督なら良かったのでしょうか。
一年間という長い密着で見えた希林さんの魅力を徹底検証していきましょう。
映画に対する一般的な評価
この作品は木寺監督が自ら聞き手となって、樹木希林という不世出の女優から何かを得ようとする形で進められていきます。
前半は作品に取り組む希林さんの姿を追いかけています。
しかし、途中からは聞き手であるはずの監督の未熟さや優柔不断さが前面に出てくるのです。
観客は総じて『希林さんは良かったが、監督の手腕が・・・』『他の人が監督をしたらもっと良かった』という評価を下しました。
希林さんも苛立ちを隠せず、監督に未熟だと苦言を呈する場面もあります。
視点を変えると見える意図
希林さんは自分の人生が残り少ないことを知っていました。なのになぜ、未熟な木寺監督に最初で最後の長期密着取材を許したのでしょうか。
木寺さん一人だけならいいと言った樹木さんの心情を考察していきましょう。
タイトルの意味
この作品のタイトルは「樹木希林を生きる」です。
しかし、観客が望んでいたのは「樹木希林の生き方」を知ることでした。
希林さんの生き方に触れ、そこから何かに気付き、自分にフィードバックしたいという期待を込めて観ていたのです。
そんな観客にとって、監督自身の情けなさは邪魔なだけですから「作品を台無しにしている」という評価になってしまいます。
もう一度言いますが、この作品のタイトルは「樹木希林を生きる」です。
このタイトルの主語はいったい誰なのでしょうか。その主語が希林さんでないとしたら視点は変わります。
希林さんが“樹木希林”を演じて生きているとしたら、観客の評価は正しいということになります。
しかし、主語が木寺一孝という人ならどうでしょう。作品の観方も全く違ってくるのです。
自然体でいること
この映画だけではなく、希林さんの映像を観るたびに感じるのは「素のままでいる勇気」です。
そのことこそが樹木希林という生き方なのです。
おそらく泣きの演技で鼻水を隠そうともしなかった女優は希林さんが最初ではないでしょうか。
自分の顔にできたシワさえ愛おしいと感じる人なのです。
木寺監督も撮り始める前は「女優樹木希林とはどんな人なのか」を撮ろうとしていたことは理解できます。
それは前半部分が密着ドキュメンタリーそのものだからです。
しかし、当の樹木希林さんがあまりにも自然体であり、その美しさに木寺監督は人として感動してしまいます。
素のままを曝け出す
「カッコつけていちゃダメだ」と思った木寺監督は、客観性を失っている自分を肯定するのです。
そして自分も樹木希林さんのように素を曝け出し、恥ずかしい部分も隠さず見せようと腹をくくりました。
その結果が後半部分の「木寺一孝が“樹木希林”を生きてみた」という密着した側のドキュメンタリーになったのです。
“樹木希林”という“生き方”
この映画では「樹木希林」を芸名ではなく生き方としてとらえているのです。