犬だけ殺さなかったのは犬が欲望に陥ることなく理性や道徳を守っていたからではないでしょうか。
そしてそれは皮肉にも犬こそが実はこの村社会の「理性」の象徴だったことの証左だったのです。
ラストシーンの意味
あのラストシーンには様々な解釈や考察がなされてきました。
賛否両論を呼んだラストシーンは何を意味していたのかを考察していきましょう。
正しい間違いは人間が勝手に作った口実
村人達が無残に死んでいったラストはギャングこそがまともに見えてしまう錯覚を起こしそうです。
社会的に見れば確かに「悪党」とされるのはギャングの人達で、基本日の目を見ることはありません。
しかし、彼らが焼き殺さなければいずれ村人達も自滅していたでしょう。
結局正しい間違いとはあくまでも人間が生きるために勝手に作った口実でしかありません。
本当の意味での正義、そして善悪とは社会的規範や状況、立場で簡単に変わる実に脆いものなのです。
フィルム・ノワールの擬似的な復権
ラストシーンの渋いコートでクールにトムを射殺するグレースにはどこか哀愁が漂っています。
そんな彼女の存在を通してもしかしたらフィルム・ノワールを擬似的に復権したかったのかもしれません。
ギャングとして生きる運命しか選べなかったことも含め、社会の裏で暗躍する大罪人の宿命を彼女に凝集しています。
ラストにどこか色気が感じられたのはそうした昔懐かしいテイストが感じられたからでありましょう。
リアルな描写の真意
「ドッグヴィル」は舞台劇を用いての密な人間関係から人の本性、限りない欲望を暴き出しました。
その真意は恐らくアメリカ社会も含めた現代社会そのものに対する皮肉・揶揄ではないでしょうか。
今でも世界のあちこちでは小さな戦争やテロが起こっており、何かあれば戦争を起こせる状態です。
表向きは平和とされていながら、それら全てが実は血塗れの歴史によって支えられています。
極めて危うい砂上の楼閣が現代社会の本質であり、箍が外れると簡単に崩れてしまうのです。
そのような戦後の現代社会のメタファーがリアルな描写に投影されていた本質なのでしょう。
人間と社会を考える物語
極めて大きい挑戦がなされてきた「ドッグヴィル」は数々の常識を破壊する作品となりました。
ラストはそれだけ見ると後味の悪いものであり、決して快楽を齎す作品ではないでしょう。
しかし、そういうアプローチだからこそ逆説的に人間と社会について鋭く深く考えさせられます。
そしてそれは我々が少し目を向ければ如何に脆弱な基盤の上で生きているかということでもあるのです。