イエス・キリストは自分が死ぬことで人々の罪を解放しました。
これをこの作品に当てはめると、牧野は自分が死ぬことで島が苦しみから救われると思っていたように見えます。
島がシャンルーの死に苦しんでいたことを知っていて、加害者である自分の死だけが島を解放できると解釈していたのでしょう。
もしシャオエンが死なずに済んでいても、牧野は死ぬ覚悟をしていたのかもしれません。
主人公たちの「楽園」とは
楽園を目指す牧野はシャオエンの遺体と一緒に船に乗り込みました。そして島からの弾丸を浴びたのです。
牧野にとっての楽園は死後の世界にあり、それを島も理解していたように見えます。牧野と島にとっての楽園とは何だったのでしょうか。
苦しみのない場所
島と牧野の共通点はシャンルーの死に罪悪感を持っていたこと。自分のせいで彼女が死んだと二人とも悩んでいたのです。
だとしたら彼らは生きている限り苦しみと戦わなくてはならないでしょう。
生き地獄という言葉がありますが、まさに彼らはその中にいたと考えられます。
彼らが楽園にこだわったのは、自分の罪があまりにも重かったから。
罪から解放された先に楽園が広がり、そこは死ぬことでしかたどり着かない場所だと思っていたのかもしれません。
牧野にとっての楽園
シャンルーと瓜二つのシャオエンに心を開いた島と牧野。彼女との共同生活はまさに楽園だったと思われます。
もしかしたら楽園とは場所ではなく、シャオエンのことを指すのかもしれません。
だからこそ牧野は最後にシャオエンの遺体とともに船に乗り込んだのではないでしょうか。
島にとっての楽園
牧野が死後の世界に楽園を求めたのに対して、島が死んだ描写はありませんでした。
島にとっての楽園は牧野のそれとは少し違っていたのかもしれません。彼にはシャオエンとの短い日々こそが楽園だったのだと思われます。
この思い出はこの世で作られたもの。あの世に行ってしまったら、消えて無くなってしまうと考えたのかもしれません。
島が忘れない限り、楽園は彼の記憶の中にあります。だからこそ彼は死を選ばなかったのではないでしょうか。
まとめ
島と牧野は台湾を逃避行しながら常に死の責め苦と戦っていました。
そして殺し屋に追われなくても、牧野はきっと島にシャンルー殺害の真実を打ち明けただろうと思われます。
牧野は最初から死を覚悟して島に近寄り、島の恨みを晴らさせようと考えていたはずです。
それを牧野は救世主という言葉で表現しましたが、牧野を殺した島は救われたでしょうか。
人の死は人を救わない。そんな悲しい結末をこの作品は描いているのかもしれません。