だからこそ親の壁・人種の壁とはニック自身にとっても己の弱さを乗り越える試練でありました。
「超富裕層」の象徴であるニック
本作の舞台シンガポールは超富裕層の割合が世界トップクラスの、正にクレイジーリッチな土地です。
では何故わざわざ本作ではニックの家族を通して超富裕層について描いたのでしょうか?
その辺りを真面目に考察してみましょう。
富裕層への差別と偏見
レイチェルはニックの家系との交流で人種の壁や家族の壁にぶつかりましたが、ニックもまた壁がありました。
それは富裕層への差別と偏見です。彼はレイチェルがエレノアたちとぶつかった後このように述べています。
君は僕の家族のことを聞こうとしなかった、そこが他の人と違うところなんだ。
引用:クレイジー・リッチ!/配給会社:WARNER BROS.
この台詞から、ニックは金持ちの家系というステータスが邪魔をして利用されそうなこともあったのでしょう。
レイチェルに人種の壁という苦悩があったように、ニックにもまた金持ちであることの苦悩があったのです。
だからこそ彼は一度富裕層という自分を縛る足枷にもなるものを捨てたかったのでしょう。
「愛はお金では買えない」は富裕層の理屈
そしてもう一つ、こうした恋愛論でよく耳にする「愛はお金では買えない」は富裕層の理屈だと気付かされます。
レイチェルも大学教授というステータスをしっかり立てているし、ニックも富裕層であるこへの自負があるのです。
経済観念が凄くしっかりしているからこそ、二人の愛情はお金ではないことへの説得力が重みを持ちます。
これが貧困層や金持ちじゃない人がいっても資産運用を知らない人が無知を正当化しているだけでしかありません。
世の中何をするでもやはりお金は必要です。しかし、本当の富裕層はそれを鼻にかけることなどしないのです。
「愛はお金では買えない」とはもしかすると富裕層の自身に対する戒めなのではないでしょうか。
アメリカとアジアの差は「伝統」か「自由」か
こうして比べてみると、本作における人種の壁や家柄の壁は結局の所格差そのものにはないと気付きます。
レイチェルとニックら息子娘世代とエレノアら親世代の差、それは「伝統」か「自由」かではないでしょうか。
レイチェルもニックも奥底で望んでいたものは「自由」であり、感性がアメリカ寄りでありました。
一方エレノア達親世代は叩き上げで苦労しながらビジネスのモデルを作り上げた「伝統」が大事なのです。
この二つは中々両立しない要素であり、レイチェルは決してニックの家柄や伝統そのものは否定しませんでした。
しかし、一度ニックのプロポーズを断ったのは家族を捨てて掴む幸せが本当の自由ではないと知っているからです。
だから単なる金持ちの道楽映画ではなく、凄く本質的な人生の葛藤を細やかに描いています。
そしてそれが現実問題のアメリカとアジアの差となっているのではないでしょうか。
まとめ
本作はハリウッド映画としては近年まれに見るレベルの革命児というべき作品となりました。
物語そのものはありがちで、ともすれば「所詮お金持ちの道楽」という批判も少なからずあるようです。
しかし、そのようなお金持ちの世界にだってその世界なりの苦悩や葛藤といった壁は絶対にあります。
それは富裕層でない方々には贅沢かつ高尚に映ってしまうだけで、富裕層だってあくまでも生身の人間です。
そのような強者の苦悩・葛藤を決して馬鹿にせず差別・偏見を持たず真正面から王道として描ききりました。