出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B001P3POX4/?tag=cinema-notes-22
映画「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」はF・スコット・フィッツジェラルドが1922年に書いた短編集が原作です。
デヴィッド・フィンチャーとブラッド・ピットは「セブン」「ファイト・クラブ」に続き三度目のタッグとなります。
脇もケイト・ブランシェット、タラジ・P・ヘンソン、ジュリア・オーモンド、ジェイソン・フレミングと実力派ばかりです。
脚本・映像共に非常にクオリティが高く、以下が本作の受賞歴です。
第81回アカデミー賞美術賞・メイクアップ賞・視覚効果賞
第4回オースティン映画批評家協会賞助演女優賞(タラジ・P・ヘンソン)
第62回英国アカデミー賞メイクアップ&ヘアー賞・美術賞・視覚効果賞
第35回サターン賞ファンタジー映画賞・助演女優賞(ティルダ・スウィントン)・メイクアップ賞
第80回ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞・脚色賞
セントルイス映画批評家協会賞作品賞
バンクーバー映画批評家協会賞監督賞
第7回ワシントンD.C.映画批評家協会賞・美術賞引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/ベンジャミン・バトン_数奇な人生
内容は肉体と年齢が逆転した運命の元80歳まで生きたベンジャミンと彼を取り巻く人達の不思議な人生を描いています。
本稿ではベンジャミンが思う永遠をネタバレ込みでじっくり掘り下げていきましょう。
また、ハチドリが象徴するものやデイジーの恐れなどについても併せて考えていきます。
愛と孤独
本作は一見老人から赤ん坊へ若返っていくベンジャミン・バトンの設定や内容の奥深さ故に難しいと思われがちです。
しかし、そうした装飾を取っ払うと核の部分は非常に単純な“愛と孤独”の物語だったのではないでしょうか。
普通の人と違う人生を生きる彼がデイジーという素敵な女性と出会いながらもすれ違い故に別れと孤独を経験します。
そうした本作独自の寂しさ・切なさは本作を考察していく上で非常に大事な鍵となります。
ベンジャミンが思う永遠
ベンジャミンとデイジーはまるで違う人生を歩まないといけない中で「永遠はない」といいます。
それに対して何故だかベンジャミンは「永遠はある」と静かに、しかし強く反論しました。
いずれ死ぬと分かっていながら、生命も肉体も時間も有限だと分かっていながらそれでも尚永遠を肯定するのです。
果たしてベンジャミンが思う”永遠”とは一体何なのでしょうか?
愛という名の“想い”
結論からいえばベンジャミン・バトンが知ったデイジーとの愛という名の”想い”です。
それも世間一般にいわれる”永遠の愛”などという綺麗事ではなく、どこか痛さや暗さ・切なさを伴っています。
人間死んだときに形あるものは何も天国まで持っていくことは出来ません。
しかしデイジーを一生涯愛したという事実、そしてその愛に向けて自分が一生を全うしたという事実。
これらは“想い”という普遍的な形のないものへと昇華され、時が変わっても形を変えて繋がっていくものです。
そしてその通りにベンジャミンとデイジーは最期に再会し、その想いが残る形となりました。
孤独を知ったから
彼が何故この境地に辿り着けたのかというと、“孤独”を知ったからこそです。
父トーマスには自分が生まれた次の年に捨てられ、その特殊な出自と人生故に孤独を強いられてきました。
そして愛する人や娘が出来ても彼は結局この孤独から解放されることはありません。
しかし、そんなベンジャミンであっても上記したようにデイジーを愛したという事実が想いとして残ったのです。
本当に大切な物は残り続けるか形を変えて自分の元に戻ってくるということを経験で知りました。
だからこそ単なる綺麗事ではなく実体験を伴って永遠のものがあると伝えられたのです。
孤独もまた永遠なり
同時に直接の言及はないものの、ベンジャミンは孤独もまた永遠であると知っていたのではないでしょうか。
彼はデイジーと娘を置いて出て行く前に正反対の「永遠はない」ということまでいっていたのです。
しかし、それは同時に孤独もまた永遠であると認めたことになります。