果たして彼女はこの一生にどんな想いを込めていたのでしょうか?
流れ星
ズーラという魔性の女、彼女は例えるなら流れ星だったのではないでしょうか。
如何に激しく輝きスター街道を歩もうがその最期は堕ちる運命にありました。
完全に人として生き方が破綻しており、刹那の愛の為だったら政治や音楽すら利用します。
その反動がラストの心中という結末を生み、流れ星のような人となりました。
舞踏会でのダンスや歌唱力の衰えもそれを表わしています。
反りが合わない
それ程までにヴィクトルを愛しながらも何故喧嘩なども含めた別れが多いのでしょうか?
それは政治や音楽がどうのこうのではなく単純に反りが合わないという相性の悪さです。
だからこそ惹かれ合う部分をお互いに持ちながらもずっと一緒には居られません。
魔性の女というのも結局選り好みや主義主張・行動がやや激しいだけなのです。
だからこそヴィクトルは愛人を作り、ズーラもまた形だけの結婚をしました。
二律背反
そんなズーラの愛は二律背反、決して安定して一緒に居られることはありません。
一緒に暮すと喧嘩別れになるし、かといって離れすぎていても寂しいのです。
上述した二人の結婚式が退廃的な雰囲気や心中という形だったのもそれなのでしょう。
だからこそズーラは家庭も捨てて、歌手とダンサーも捨ててヴィクトルとの心中を選びました。
理想と現実の矛盾
ヴィクトルとズーラは恋愛でも音楽でも常に理想と現実の矛盾と戦っていたのでしょう。
理想の音楽をやろうとすれば現実に阻まれ、かといって恋愛で生きようとすると反りが合いません。
寧ろ現実に侵食されていきどんどん魂が腐っていって心に執着しか残らないのです。
本作の恋愛が異質なのは“理想を追い求める”と”現実と折り合う”のどちらでもないことです。
現実に侵食されながら、それでも尚恋愛だけは妙に理想を追い続けるという捻れた構造になっています。
そうして歪んだ結果があの奇妙なラストへ繋がり、本作がありがちな恋愛映画にならなかった理由でしょう。
相対化しない恋愛
本作は余計な情報をそぎ落しながら、その上で尚歪んだ愛を理想だと思い込む歪んだ男女を描きました。
それはどこか小器用にまとまりがちなこの手の恋愛映画を決して相対化したくなかったのでしょう。
凡百の恋愛映画ならば、この二人が紆余曲折ありながらもお互いを相対化して一緒に居るようになります。
しかしヴィクトルとズーラの恋愛は相対化などされず、中途半端に折り合うという結末を選びませんでした。
決して共感できる生き方ではないでしょうが、激しく燃えた挙句凍てつく恋を貫く生き方にも価値はあります。