ですがこの映画ではその心配はなく、二人の恋愛に集中することが可能です。
恋愛要素以外を取り除いたシンプルな作品だからこそ澄んだ美しさを放つことができるのではないでしょうか。
両親の理解
息子が男性を愛しても批判しないこの両親の対応に感動した人も多いのではないでしょうか。
母親はエリオに直接的な言葉で何かを表現することはありませんでした。だからこそ優しさが痛いほどに伝わってきます。
父親はエリオ同様、実はセクシュアリティをひっそりと求めた経験があったことを告白。
同じ立場で意見してくれたことはエリオにとって心の支えになったはずです。
家族愛も手伝って、映画に優しさと美しさを与えたのだといえるのではないでしょうか。
ガールフレンドの理解
何も説明がないまま放っておかれたマルシア。普通だったら怒りそうなものですが、彼女はエリオを優しく受け入れてくれました。
友達になることを自らすすんで提案してくれたマルシアはエリオのオリヴァーへの想いが本物だと判断したのでしょう。
もしマルシアがエリオを責めていたらこの映画の美しさは損なわれていたかもしれません。
誰かの犠牲の上に成り立つ恋愛は罪悪感が重い空気を漂わせるのですから。
愛と宗教の間で葛藤する姿
イタリアではカトリック教徒が大半を占めていますが、彼らはユダヤ教徒です。
ユダヤ教において同性愛は戒律に反し、厳しい批判に晒されます。
ですから二人の恋を周囲が許しても宗教上許されないものだったことが分かるのではないでしょうか。
エリオとオリヴァーの心が通うに連れて、二人はためらいながらもバイセクシュアルとしての苦悩を共有していきます。
情熱的に想っているからこそお互いの立場をわきまえて、自分の気持ちをコントロールしようとしているのです。
彼の思いやりに満ちた言葉の数々はエリオへの愛で溢れています。
別れの前に訪れた旅行の途中、二人は自然の中で思うがままに振る舞っていました。
文化的、宗教的な縛りから解き放たれた二人の伸びやかな姿は、誰の目にも印象的に映ります。
二人にとってユダヤ教は生きていく上での指針。決して手放すことができない存在です。
一方で、同性である二人が互いを愛してしまうことは、ユダヤ教で禁じられています。
しかし二人の間に確かに芽生えた「愛」を物理的に消すことはできません。こうして二人の中に大きな葛藤が生まれたのです。
愛ゆえの葛藤に純粋に向き合っても解決策は見つからず、愛だけが膨れ上がっていきます。
相手を想って苦しむほど愛は輝き、美しく映るのです。