それ位にカティヤの精神状態は冷静沈着な判断が出来ない所まで来ていました。
いつの間にか自身が深みにはまり抜け出せなくなっていることが怖かったのでしょう。
超えてはならない境界線を超えようとしている危険な自分がいたことに気付いたのです。
同じ穴の狢にしない
一つ目の理由の裏側にある目論見はカティヤをメラー一家と同じ穴の狢にしないことでした。
もし自分だけが助かって意図的に爆弾テロでメラー一家を殺してしまえば彼女も立派なテロリストです。
確かにこの夫婦を許してはなりませんが、爆弾テロで殺しても延々と殺し合いになります。
カティヤはメラー夫婦を社会的に裁きたいのであってテロリストになりたいわけではありません。
復讐を一度経験させ、自爆という選択をさせることで間接的に復讐を否定しているのです。
潜在意識による否定
三つ目の理由として、カティヤはそもそも潜在意識の部分で復讐を望んでいないからではないでしょうか。
ダニーロから上告の話が来た時も最初は否定していたことから本音は彼女も戦いたくないのです。
裁判による戦いも奥底でそれを望んでおらず理性で対処しようとしたから芯が通らず負けたともいえます。
人間は極限状態に追い込まれて初めて本性が現われますが、カティヤの本性は戦い向きではありません。
それでも戦わなければならない状態へ追い込まれた時に潜在意識が強く復讐を止めたと推測されます。
闘争とは自発的に行うもの
カティヤが辿った悲惨な末路を見ると、闘争は自発的に行うものであるということを思い知らされます。
ヌーリとロッコという家族を失ったことで彼女は戦ったわけですが、本来は戦う人ではありません。
ましてやテロリズムなどという複雑な政治的思想はカティヤが一番戦うのに不向きな分野です。
自身が望まぬ戦いへ追いやられた人が行き着く末にどのような結末を迎えてしまうのか?
そのような闘争の本質に深くまで切り込んだことにこそ本作の醍醐味があるのではないでしょうか。
国家が個人を守ってくれなくなる
本作はあくまでもテロの被害者側にフォーカスを当てたのですが、大きな視点で見ても示唆に富んでいます。
それはもはや国家が個人を守ってくれなくなる時代が到来している(しつつある)ということです。
法律でさえも悪党の自己弁護を補強する場として利用され、もはや何の効果も発揮しません。
国民を守るはずの法律がかえって人を苦しめ縛り付けるものになってしまっているのです。
そんな時自分を守れるのは家族でも誰でもなく自分のみであり、誰も何も守ってくれなくなります。
カティヤのやったことは決して褒められませんが、一方でその事実を突きつけたのではないでしょうか。
今を生きる人達にとって決して他人事ではない国家と個人の関係を非常によく突き詰めた一作でした。