ラストでエルトン・ジョンが復活する部分を印象づけるための映画としての演出なのです。
ミュージカルということ
この映画はミュージカルという形をとっています。ミュージカルはいわば作り物の世界です。
エルトン・ジョンが自分自身の半生を描くにあたってミュージカルという形をとれば、一定の範囲で史実と異なる演出をすることがやりやすくなります。
もちろんミュージカルの形をとることによって、彼の楽曲を映画の中に自然に取り入れることが可能になっているということも忘れてはいけません。
栄光の代償
多くの成功したスター達は華やかな栄光の代償として多くの希少なものを失います。
それは大事な人との絆だったり、場合によっては何物にも代えがたい自分自身の人生だったりします。
エルトン・ジョンも例外ではありませんでした。エルトン・ジョンにとって盟友ともいえる作詞家のバーニーとも溝ができてしまいます。
彼とはその後和解しますが、エルトン・ジョンがミュージシャンとして成功するにつれて、彼の周りには彼をしゃぶり尽くそうとする有象無象が群がります。
そして、バーニーだけでなくエルトン・ジョンにとって現実の人生との架け橋となる大事ない人たちとの接点を次第に失っていくのです。
このためロケットマンのように彼の孤独は一層深まり、そこから逃避するためにドラッグやアルコール、セックスなどに依存してしまいます。
彼は死の一歩手前まで来ていました。レジーとしての人生もエルトン・ジョンとしての人生も破綻してしまった彼の孤独感は計り知れません。
映画では見事に復活を遂げたエルトン・ジョンが演出されていますが、まだ一部の依存症は残ったままのようです。
ミュージシャンとドラッグ
ミュージシャンにドラッグはつきものです。ドラッグによって創造力が増し、新たなイマジネーションがわくのだともいわれています。
常に過去の成果を破壊し新しいものを創造し続けなくてはいけないプレッシャーは並大抵ではないことは想像できます。
多くのミュージシャンはその緊張感・恐怖感からドラッグに溺れるのでしょう。
しかしドラッグから立ち直ったミュージシャン達は、それを完全な妄想だと強く否定しています。
その時は画期的な創作ができたと勘違いしますが、後で振り返るとつまらないものが多いといいます。
【ロケットマン】は伝記映画ではない
映画【ロケットマン】をエルトン・ジョンの半生を描いた伝記映画ととらえるのは必ずしも正しくありません。
確かに彼の半生を題材にはしていますが、彼自身は未だ生存していて、自分自身の半生をミュージカルとして演出し直している部分に着目すべきです。
ミュージカルはファンタジーです。史実をそのまま表現する必要はありません。
この映画はある意味作りもののスターであるエルトン・ジョンの半生を孤独というテーマでミュージカルとして再構成したものと理解すべきです。
もちろん難しいことは考えず、単純にエルトン・ジョンの楽曲を思う存分楽しめるミュージカルとして鑑賞するぶんには何の問題もありません。