それをわざわざ仕事場の公衆電話を使ってというところが面白いのです。
この時代であれば公衆電話ではなく携帯電話やメールなどでも出来たでしょう。
そこを公衆電話という昔懐かしいアイテムで表現したのが絶妙な味を醸し出しています。
別れへの伏線
2つ目に、これ自体が実は終盤でターフーに訪れる別れへの伏線なのです。
そこまでに公衆電話で2人が何かしらを毎回話すという文脈を作っていました。
しかし、父の死後その関係は急に冷めていき、2人の関係は自然消滅に至ります。
公衆電話がなってもターフーはただ無言で手を振るだけで、相手側も無言です。
何故無言なのかというと、別れを切り出すのが辛かったからでしょう。
直接別れを告げるのではなく、間接的に無言で別れるのが何とも切ない色気を出しています。
電話で繋がる程度の仲
そして3つ目に、ターフーとリンリンが電話で繋がる程度の仲でしかないからです。
確かにリンリンは優しいターフーにどこか甘えている節が見受けられました。
しかし、だからといって本当にターフーを愛していたかというとそうでもありません。
本当に大切に思っているのならば、もっと距離を縮めてデートしてもいいでしょう。
リンリンはあくまでサーカスの仕事としてターフーの水族館に来ていたに過ぎません。
だから別れが来たら、何もいわず静かに去って行くのが礼儀だったのでしょう。
典型的な友達以上恋人未満の関係性だったということです。
死にゆく者は何を残せるのか?
本作を通して問われていることは「死にゆく者が何を残せるのか?」ということです。
父の不治の病と障害児の息子、片方ずつだけだったら盛り上がりに欠けたでしょう。
しかし2つを掛け合わせれば、父が死と向き合い限られた時間を生きる意味が生まれます。
また、息子を成人済みの設定にしたことで「障害者だから可哀想」という雰囲気も薄らぐのです。
あくまでも自分の足で立って歩く前向きな親子の物語として描かれています。
だからこそ、決して説教臭さや教訓じみたものがない感動の物語となったのでしょう。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
本作で特に共感したのは障害児を抱えた親御世代ではないでしょうか。
どちらかといえば大人向けの物語で、扱っている内容も設定もかなり重たい物語です。
しかし、では子供たちや若者受けしないのかというとそうではありません。
若者たちから見ても自閉症がどういうものかという障害の勉強になるでしょう。
また、自分がもしターフーのようになったらという想像力も掻き立てられる筈です。
親子という設定にしたことで、大人向けながら同時に万人にも見られる配慮がなされています。
その高いハードルを見事にクリアし、様々な新境地を開拓した意欲作です。