ここでのポイントは「良い思い出」だけではなく「苦い思い出」も出していること。
家族の絆の再生がテーマにありながらも、安易な綺麗事だけで片付けていません。
楽しいことの分だけ辛く苦しいこともまた沢山あり、それを通じて真実へ迫ります。
こういう所でも段階を通して迫っていく父の目配り・気配りが届いているのです。
数珠繋ぎの構造
2つ目に、徐々に再生されていく家族の絆と順番に出る手料理が連動しているのです。
手料理の1品1品より寧ろ1つのセットとして集まることに大きな意味があります。
それは家族も同じで、父・母・兄・弟・妹と集まっていくことで家族が出来上がるのです。
正に数珠繋ぎの構造であり、少しずつつなぎ合わせて最後のおはぎで完成するシステムです。
この構造をわざとらしくなく自然に物語の流れとして見せる計算され尽くした演出も見事でしょう。
そして何より役者の演技力の自然さがそれを可能にしたのだといえます。
「モノ」ではなく「コト」
3つ目に、「モノ」ではなく「コト」が大事であるというのを示しているのです。
手料理ではなく、手料理に込められた「思い出=体験」の重要性が込められています。
上に書いた「お袋の味」というのも本質は手料理に込められた母の思いが大事なのです。
単純な料理の上手さであれば、家庭料理より美味い料理屋など幾らでもあるでしょう。
しかし、家庭で親が愛情を込めて作ってくれる手料理は料理屋に出せない味わいがあるのです。
その本質を浮かび上がらせてみせた、見事な演出と脚本ではないでしょうか。
家族の絆とは「思い」である
本作は手料理という「具体」から家族の絆という「抽象」へ導いていく構造です。
そして、家族の絆の本質は「思い」であることを受け手に伝えてくれています。
家族というものはいつかバラバラになり、死後には何も持って行けません。
お金も家具も手料理も全ては現世に残したまま他界することになるのです。
しかし、そんな中で残せるのは家族への「思い」に尽きるのです。
父・日登志が手料理を通じて遺された家族に伝えたかったのはそれでしょう。
だからこそ「最期の晩餐」であると同時に原点を思い出させる「最初の晩餐」なのです。
「繋げる」のではなく「繋がる」
本作はよく「家族の絆」を再生させた作品評されていますが、それはやや正確さを欠きます。
決して失われた絆が再生され元通りになるという安直な結末を出していません。
日登志は他界しているわけで、家族の絆もこの葬式が終わればバラバラになるでしょう。
しかし、「思い」こそが1番大事だということを父は手料理を通して伝えました。
それを遺された側が汲み取り、それぞれの形で広げて「繋がる」ことでしょう。
家族はいずれバラバラになりますが、しかしその思いは形を変えて次代へ繋がります。
「繋げる」のではなく「繋がる」のが家族の絆だという本質を教えてくれた名作です。