果たして、ここには何の真意があったのでしょうか?
革命への志
まず1つ目に、ここで描かれている真意は「革命への志」ではないでしょうか。
この当時は丁度学生運動も終盤の連合赤軍の段階に来ていたのです。
世の中全体がまだ世界に革命を起こすことが出来ると思っていました。
そうした時代の風潮が若松監督にもやって来たということでしょう。
世の中全部ぶち壊してやろうと思って
引用:止められるか、俺たちを/配給会社:若松プロダクション/スコーレ
この台詞が彼の志の全てを物語っているのです。
めぐみへのレクイエム
2つ目に、若松はこの歌をめぐみへのレクイエムとして捧げたのではないでしょうか。
ひとしきり歌った後に「バカタレ…」と涙を堪えながら口にしています。
めぐみが果たせなかった遺志を果たそうという決意がここに見て取れるでしょう。
誰よりもめぐみを気にかけていた師匠としての厳しさと優しさの表れです。
めぐみの死に1番悲しんだのは高間監督ではなく若松監督であると推測されます。
娯楽性の強調
3つ目に、このインターはあくまでも本作の娯楽性を強調しているのでしょう。
すなわち、映画としてドラマチックに締めるためのハッタリ・誇張です。
実物の若松監督が学生運動に与して作品作りをしたことはないといわれています。
白石監督をはじめ作り手が敢えて演出として盛ったのではないでしょうか。
本作がドキュメンタリーではなく、ドラマであることをここで示しています。
この辺りは作り手がリアリティよりも好きなものを優先したのではないでしょうか。
売れるものより売りたいもの
こうして見ていくと、本作が訴えているのは「売れるものより売りたいもの」でありましょう。
若松孝二監督は最初の内こそ「売れる作品」としてピンク映画を撮っていました。
しかし、そのピンク映画の中に強烈な主張やメッセージ・問題意識を込めていたのです。
そういう世の中への意識・問いかけが若松プロ全体を高みへと押し上げていきました。
めぐみに足りなかったのはそうした批判精神や飢餓感だったのかもしれません。
売れる売れないはあくまでも結果でしかないことを本作は伝えてくれています。
これは同時に邦画も含んだ映画界全体へ投げかけた問いではないでしょうか。
実践者か傍観者か
ここまで考察していくと、本作は吉積めぐみを通してとても大事なことを問うています。
それは「実践者か傍観者か、どちらを選びますか?」ということではないでしょうか。
めぐみは自殺こそしたものの、間違いなく実践者であろうとした人でありました。
性別の壁を前に挫けてしまったものの、邦画の歴史の片隅で戦ったのは事実です。
大事なことは1度始めたその行動を成功するまで諦めないということでしょう。
時代が変わって働き方やシステムが変わっても、奥底の大事なものは何も変わりません。