そのため、話の内容に嘘や脚色が混じっている可能性がないとは言い切れません。
しかし、本を読んだ人がその嘘や脚色を本当のことだと思ってしまえば、読者の中では真実として広まるでしょう。
自伝本のタイトルは、あくまでその内容がファビエンヌの頭の中で確立された「真実」であることを表しています。
サラの存在が意味するものとは?
映画に度々登場するものの、最も謎に包まれた人物といえるのが「サラおばさん」こと、サラです。
サラは作中においてすでに故人であり、その素性やファビエンヌ達との明確な関係性が描かれていません。
しかしサラの存在には、さまざまな意味が隠されていると考えられます。
ここでは、謎に包まれた人物であるサラの存在が意味するものについて考察していきましょう。
憧れの存在
サラはファビエンヌの娘であるリュミールを、幼い頃から世話していたとされる人物です。
作中では、リュミールから「サラおばさん」と呼ばれており、もう1人の母親のような存在として描かれていました。
対するファビエンヌは女優の仕事で忙しく、娘のリュミールに愛情を注いであげられなかったような描写があります。
またサラは女優としても有名で「生きていればファビエンヌが受賞した賞を受賞していた」とされるほどの実力派です。
ファビエンヌもサラの実力を認めており、度々サラの話をするところから、憧れに似た感情を抱いているといえます。
ここから考えると、サラはファビエンヌが思い描く理想の母親像・女優像を体現した人物であるといえるでしょう。
コンプレックス
自身のライバルでもあり、娘のリュミールの世話をしていたなど、ファビエンヌにとって身近な人物ともいえるサラ。
しかしファビエンヌの自伝本には、本来書かれていても良いはずのサラに関する話が一切書かれていないのです。
その理由こそ、ファビエンヌが抱えるコンプレックスにあると考えられます。
リュミールの話によると、女優としての在り方だけでなく、家族に対する接し方も違っていたファビエンヌとサラ。
何かある度にリュミールはサラの話をしますが、ファビエンヌはその都度はぐらかします。
また、周囲がサラの良いところを話した時には「私は違う」と否定しているシーンもありました。
ここから考えるとファビエンヌは、サラに対して並々ならぬコンプレックスがあったと考えられます。
自伝本にサラのことを書かなかったのも、読者にサラと自身を比べられるのが嫌だったからといえるでしょう。
リュミールはなぜ脚本家になったのか?
フランスを代表する有名女優であるファビエンヌの娘、リュミール。
映画において彼女は脚本家として働いており、作中でも脚本の作成や変更に悩まされているシーンも存在します。
女優の母と俳優の夫がいることもあり、演技に関する仕事の大変さは誰よりもわかっていたでしょう。
そんなリュミールが脚本家になった理由は、作中で明らかにされていません。
ここでは、リュミールがなぜ脚本家になったのかを考察していきましょう。
終盤の食事中リュックが、ファビエンヌの若い頃に「リュミールがよく母の真似をしていた」と話しています。
またリュミールは、リュックになかなか謝れないファビエンヌに頼まれ、謝罪の脚本を書くことを引き受けていました。
しぶしぶ引き受けたように見える謝罪の脚本作成ですが、脚本を書いている時のリュミールは生き生きとしています。
ここからリュミールは、母親に対して壁を感じながらも、心の底では女優としての母親を誇りに思っていたのでしょう。
そして脚本家となった自分が書いた脚本をファビエンヌが演じ、親子で作品を作ることを夢見ていると考えられます。
ファビエンヌと『母の記憶に』の関係に隠された意味とは?
映画において、ファビエンヌは『母の記憶に』という作品の登場人物を演じています。
実はこの『母の記憶に』という作品は、ファビエンヌのさまざまな一面を表していると考えられるのです。