出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B088DJL8FP/?tag=cinema-notes-22
【“隠れビッチ”やってました。】は、あらいぴろよの同名コミックエッセイを映画化したものです。
男性から見ても女性から見てもイヤな女の代表格といえる隠れビッチをやめられないひとみの物語として描かれています。
ただこの作品は単に隠れビッチを面白おかしく描いたものではありません。
隠れビッチをどうしてもやめられないひろみの心のダークサイドにスポットがあてられているのです。
ひろみは二人の男性との出会いによって心の鎧を少しずつ剥がしていきます。
そしてやがて一人の女性として、また人間として成長していく姿は多くの女性の共感を得ることでしょう。
ひろみが隠れビッチをやめられないわけ
ひろみは自分がいい思いをするために打算的に隠れビッチをやっているのではありません。
そこには彼女が心の奥に押し込めた幼い頃の暗い体験がありました。彼女の心のダークサイドを見てみましょう。
心のダークサイドを隠す鎧
ひろみは幼い頃父親のDVを経験しています。母親共々父親の虐待の犠牲者なのです。
彼女は成長するにつれて、親の愛情に恵まれなかった自分を心の奥底に閉じ込めざるを得ませんでした。
人は生きていくことが出来る自分に都合のよい物語を自我として創作する生き物です。
自分に都合の悪い体験や現実はなかったものとして心の奥底に閉じ込めます。
しかしながらダークサイドに閉じ込めたはずの現実は、隙を見て心の表面に出てこようとするのです。
ひろみはこれを閉じ込めるために、隠れビッチという作り物の鎧を自分自身にまとう必要がありました。
清楚を装いながら計算ずくで男に擦り寄り、なびいてきたら突き放すという演技をすることで自分では認めたくない現実を封印してきたのです。
自己肯定感
ひろみは人から好かれている、少なくとも嫌われていないということを繰り返し繰り返し確認する必要がありました。
自分自身で自分を肯定できていないので、他者に肯定して貰う必要があったのです。
彼女はその武器として女であることを使うことを見つけました。隠れビッチの始まりでした。
自分のことを受け入れようとする相手を容赦なく切り捨てるとき、ひろみは何ともいえない全能感を覚えたことでしょう。
一度覚えたその快感は忘れることができず、何度もそれを繰り返すことになるのです。
男への代理復讐
ひろみは幼い頃父親の絶対的な暴力になすすべもありませんでした。心の中で沸き上がる憎悪は非常に大きかったはずです。
成長したひろみは心に押し込めた父親への憎悪を代理的に他の男性に向けたのではないでしょうか。
持ち上げておいて一気に落とす行為ほど残酷なものはないといえます。
捨て去る者だけが美しいのです。うち捨てられる者は途方に暮れて嘆き悲しむしかありません。
剛との場合
ひろみは剛との出会いで、隠れビッチをしなくても自分を受け入れてくれる存在を得ます。
特段の演技をしなくても自然にお互いを認め合える関係はひろみにとってかけがえのないものでした。