冒頭でクリスがドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいるシーンには意味があるのです。
クリスとノラの罪と罰を見てみましょう。
クリスの罪と罰
クリスは人生の岐路で必ずしも自分自身に向き合った選択をしてきませんでした。基本的に流されるままに生きてきたのです。
そんなクリスでしたが、二つだけ大きな選択をすることになりました。
彼はノラを殺害する決断と犯した罪を罪と認めずそれを償わない決断をしました。
ノラを殺害する決断は追い込まれた上での決断でした。クリスは本当はクロエともノラともうまくやっていきたかったのです。
ノラの妊娠が彼に選択を迫る決定打となりました。
彼はクロエにノラとの関係を打ち明けて彼女との破局を選ぶか、セレブな生活を続けるためにノラを排除するか選ばざるを得ませんでした。
実はクリスの最大の罪は二つ目の決断をしたことです。
彼は自ら犯したノラの殺人を罪と認識することをせず、それを何らかの形で償うことをやめる決意をしました。
罪と認識しなければ良心の呵責に苦しむこともなくなるわけです。
しかも彼は幸運にも殺人犯として逮捕されることもないので、法による罰を受けることもありません。
しかしながら彼が犯した二つの殺人の事実が変わることはなく、客観的な意味の罪はあるのです。
それに対して自己都合で償わないという決意をすることは大きな罪といえます。
しかしその罪は運の強さによって罰を受けることはないという何とも理不尽で皮肉な現実がそこにありました。
ノラの罪と罰
ノラは積極的にクリスに浮気を持ちかけたわけではなく、妊娠も計画性があったとはいえないようです。
さらにクリスにクロエとの離婚を迫ったのも決して非難される罪とはいえません。
そういう意味ではノラに罪があったとはいえないのです。
しいてノラに罪があるとすれば男を磁石のように引き付けるその天性の妖艶さかもしれません。
このような罪のないノラが、運のなさによって最終的に殺害されてしまうという罰を受けなければならないのは実に不条理です。
罪と罰とは
ドストエフスキーの「罪と罰」では自己正当化した殺人の計画性が破綻し、無垢な娼婦との出会いによって主人公は人間性を獲得します。
犯した殺人という罪は法的な罰を受けることになりますが、魂は救われるのです。
でもウディ・アレンは「本当にそうか」と我々に問いかけます。
現実にはクリスとノラのように、運の良し悪しによって罰を受けるかどうかが決まってしまう側面があるといいたいのでしょうか。