ラストシーンのビルの崩壊は、その後に起こる9.11を予見したものといわれていますが、劇中でのラストは謎多きシーンとして語られています。
乗り越えた説
「僕」が自分で顎を撃ったことでタイラーが消えたシーンは、タイラーは「僕」によって統一されたことを意味する、と考えることが出来ます。
主人公はタイラーの強さと自分の理性をもったバランスのいい人間になったのです。
死亡説
もう一つの説は、銃を撃った時に「僕」は死んでしまったという説です。
確かにタイラーは口から煙を吐いて消えていっています。同一人物なら「僕」もそうなるのが普通ですし、実際に口から煙が出ています。
ラストにマーラと二人ビルの崩壊をみているときには、すでに死んでいるのかもしれません。
最後死を迎えた
銃の発砲後に生きていたにせよ、死んでいたにせよ、ビルが崩れる中ふたりはおそらく最後を迎えたことでしょう。
映画はまるで崩壊現場にカメラがあるかのように、画像がブレて消えていきます。
死の直前に、ふたりはやっと満たされ生きていることを実感できたのかもしれません。
ファイトクラブは暴力映画ではない
公開直後は暴力映画として批判を浴びた時期もありましたが、9.11後は映画に秘められたメッセージ性が注目され、高い評価を得ています。
描かれた暴力は生きることを実感するもの
通常の暴力は相手を痛めつける為のものですが、ファイトクラブの暴力は自分を痛めつける為のものです。
人に殴られることで自分の存在を確認し、生きているという実感を呼び覚ましています。
それを象徴するのは「僕」がメンバーを殴り続けたシーンです。この時タイラーは彼をサイコ野郎と罵ります。
人を殴るのが目的ではなく、殴り殴られるのが目的なので「僕」のとった行動は非難されているのです。
ビルの爆破を計画した理由
自分に痛みを与えることで生きていることを確認していたメンバーですが、バランスを崩した暴力は外側にも向けられるようになります。
制御出来る暴力などないということを、顕著に表しています。
また自分に自信を持てるようになったファイトクラブのメンバーは、それを社会で誇示したいという欲望に駆られていきます。
ビル爆破を計画したのは、彼らの持つ社会への不満感に自分の存在の誇示力が合わさったためでした。
何度も観たくなる特殊な映画
ファイトクラブは暴力を前面に押しつつも、社会の問題を巧みにちりばめた名作です。
人間の本能に焦点を当てながら資本主義社会の窮屈さを取り上げ、資本主義社会の犠牲になった主人公を上手く描いています。
難解な映画と称されるように、一度見ただけではその奥深さはなかなか理解不可能でしょう。観るごとに引き込まれる不思議な大作です。