銃は空砲でした。空砲はファハドの娘が敢えて買ったのか。たまたま慌てて買ったのが空砲だったのか。
ハギスの目論見から推論すれば、ファハドの娘はたまたま空砲を買ったようにしたのではないでしょうか。
それでないとこの映画の「輪廻」の輪が劇的かつ美しく完結しないからです。
「人生、捨てたものじゃない」という天(神)の声も観客に聞かせたかったんじゃないかと思えてきます。
こうして様々な「クラッシュ」により、7組の人生に変化が生まれます。
そして氷のように固かった不寛容な心が少しづつ解けていく様子、もつれた糸がほどけていく様子が描かれていくのです。
寛容への回帰そして観客への宿題
単純には解決出来ない課題
こうして、登場人物たちの様々な「衝突」により、バイアスの呪縛が解けていきます。
しかし、ことはそう単純でもありません。
登場人物の中でも一番人種バイアスの少ない純粋で正義感あふれる青年警官トムが、過酷な課題(運命)を負わされることなります。
ここにハギス監督の大きな主張が隠されていました。
非番の彼がたまたまクルマに乗せてやったグラハム刑事の弟ピーターを誤解から射殺してしまうという事件を起こします。
これが映画の最後の「クラッシュ」となります。
最後に提示された落とし穴とは
ピーターの心の深いところには黒人は油断ならない、という不信があったのでしょうか、それとも白人でも同じことをしたのでしょうか。
警官の防御本能だったのでしょうか。
全体の構図が人種バイアスが解ける方向に振っておいてハギス監督はここに大きな落とし穴を仕掛けたわけです。
観客は大きな問題を投げつけられる事になります。
偏見~緩和~和解という大きな構図のラストにハギス監督は宿題を残していったのです。
人はほんとうに人種バイアスを無くすことができるのだろうか?という。
それは次のLAに降る雪のシークエンスに繋がっていきます。
LAに雪が降る
あり得ないことではない
ラストシークエンスではLAに雪が振ります。滅多に無いことだけど、あり得ないことではない、というメタファーでしょう。
それはこの映画で起きたことの集大成といえる暗喩です。つまり、異人種同志でも分かりあえる日が来るかも知れない、いや来て欲しい、という。
映画の冒頭でグラハム刑事がいいます。
LAでは人はぶつかり合う(クラッシュ)ことで、触れ合いを求めている。
引用:クラッシュ/配給会社:ムービーアイ・エンタテインメント
映画の中では極端な表現でしたが、人と人が直接顔を見て話をし、心を通い合わせることこそ大切だと言っているのでしょう。
群像劇を読み解くということ
多くの人物が登場し、初見では読み解くのが難しい構成についてハギス監督は以下のように説明しています。
意図的に観客をオフバランス状態にしておくためだったんだ。
物語についていけなくていい、映画の中のひとりになって、頭でなく心で感じてほしかった。
面白かったと言われる映画ではなく、強く何かを感じて、その感情について誰かと話したいと思ってくれたなら、この映画は成功したと言えるね。
引用: https://eiga.com/movie/1042/interview/
脚本家育ちであるポール・ハギスらしいコメントです。
初監督作品として自分の思うところを存分に表現した彼のポテンシャルの高さをうかがい知る事が出来る作品といえるでしょう。
さて、本稿をご一読後、「クラッシュ」を再度ご覧になってはいかがでしょうか。
ラストシーンで起きる追突事故の当事者の黒人女性、誰だったか分かりますよ。