出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00005R22R/?tag=cinema-notes-22
「未来世紀ブラジル」は1985年に映像化され、ジョナサン・プライスやロバート・デ・ニーロら当時の有名俳優を据えて作られたSF映画です。
「12モンキーズ」に代表されるテリー・ギリアム監督お得意の「現実と幻想の狭間の葛藤」がこれ以上ない程炸裂しています。
本作によって打ち出された数々のビジュアルは独特のユーモアや美が感じられ、未だにカルト人気も高いです。
今回はそんな本作のラストシーンの意味を中心に現実と幻想の対比や数々散りばめられたユーモア、そしてタイトルの真意を考察していきます。
統治者の姿なき管理社会
「未来世紀ブラジル」において全体を通したテーマとなっているのは「情報統制による管理社会の皮肉・風刺」です。
これ自体は「ブレードランナー」「1984」にも代表される「ディストピアSF」であり、本作固有のものではありません。
しかし、先達の作品群と本作で大きく違っているのは管理社会にも関わらず統治者が不在である、という点です。
「ブレードランナー」では人間型奴隷レプリカントの創造主、タイレル・コーポレーション社長としてエルドン・タイレルなる統治者がいました。
「1984」にしても全体主義国家・オセアニアの統治者としてビッグ・ブラザーが居て、そうした管理社会のトップの姿が作中で浮き彫りとなります。
ところが、本作はその管理社会の統治者が最後まで登場せず、管理社会そのものの全体像が見えにくくなってしまったのです。
これが本作を他のディストピアSF映画と趣を異にしている所以であり、一見難解な作品という印象を与えてしまうのかもしれません。
劇中劇ならぬ「夢中夢」
本作の構造は単なる「夢と現実」というだけではなく「夢の中にもまた夢がある」というものです。
夢の中の主人公サムはその夢の世界の中で更なる「夢」を見るという形式が多く、かつ一つ一つの話が断片的で脈絡がありません。
しかし人の夢とは本来そういうものですし、またその夢の中で違う夢を見るということも十分有り得ます。
劇の中に挿入される別の劇を「劇中劇」といいますが、それに準えると本作は「夢中夢」といえるのではないでしょうか。
以下、その夢中夢がどう成立しているのかを見ていきましょう。
空想癖に見るヒーローの架空性と狂気
サムは作中随一の空想癖の持ち主として描かれており、彼の夢はその空想の具象化として表現されています。
翼をつけて滑空したり、鎧を纏って美女を救ったり、そしてまたある時は侍の怪物からジルそっくりの女性を守ったりしています。
面白いのはこれらは我々が「ヒーロー」と認識する存在であり、サムは「ヒーロー」に強い憧憬があることが窺えるということです。
何故ヒーローなのか?それはヒーロー自体が架空性の強い、即ち管理社会から逃れた「自由」な存在だからではないでしょうか。
そしてそれ故に自らの命を省みずどんな危険な行為にも打って出るという狂気さえも内側に孕んでいます。
ヒーロー自体がサムにとっての「夢の中の夢」なのです。
抑圧からの解放
サムのこうした空想癖、その具象化としてのヒーローへの憧憬から見えるテーマは「抑圧からの解放」です。
情報統制による管理社会の象徴として異様な程登場するダクトにより、個人の自由や欲望ですらも全て徹底して管理されています。
それだけならまだしも入力ミスによって誤認逮捕が出たり、ジルを救おうとして反逆罪で逮捕されたりするのです。