そのようなほんの少しの想像力すらも欠いてしまっているのが男性支配団の正体ではないでしょうか。
コレットが作品を自分名義で書く意味
さて、前半では女流作家のシドニー=ガブリエル・コレットと遭遇するシーンがあります。
そこでコレットは夫名義で発表させられていた作品を自分名義で発表するといいました。
そこに込められた意味は何だったのでしょうか?
男尊女卑への抵抗
一つ目に挙げられるのが男尊女卑という差別意識への抵抗で、これは話の流れから自然に分かります。
折角女流作家として名前を売り出したのに、仕事は全て夫名義で偽ることになるのです。
これでは自分の実力で評価して貰えないというのと同じことではないでしょうか。
男性支配団という形で具現化されることでそれが判明しますが、ここはその一つの伏線です。
著作権の問題
もう一つは著作権が挙げられ、合理的な理由もなく夫名義で出すことは現代だと著作権違反になりかねません。
自分の書いた作品を配偶者に自分の手柄として持って行かれて収入を取られたらたまったものではないでしょう。
盗人猛々しいとは正にこのことであり、男尊女卑の社会のためならこういう違法なことも平然とやるのです。
コレットからすればそのような形で自身の書いた作品を悪用されてはたまったものではありません。
男尊女卑への抵抗とは別にそうした問題があるからこそ、コレットは断固として自分名義で発表するといったのでしょう。
差別はいつの時代も存在する
こうして見ると、差別はいつの時代にも存在しているのだということを深く教えられます。
本作ではそれがたまたま男尊女卑を打ち破る少女という形だっただけで、差別自体は今でもあるのです。
人間は生まれたときから決して平等ではなく自身が生きていく道も予め決められているといいます。
しかし、生まれや門地・性別といった部分は生まれつきのものでありどうしようもない部分です。
男性支配団とは決してこの当時だけの存在ではなく、今も我々の潜在意識に形を変えて存在しています。
それに気づけるかどうか、そこがディリリたちと男性支配団の決定的な違いでしょう。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
本作は近年の作品でも珍しい位シンプルでストレートな王道のアニメーション作品でした。
扱っている時代設定も題材も特別に目新しいものではなく、しかし多くの人の感動を呼びました。
それはただ差別を描いたからではなく、現代にも深く通じるエッセンスを凝集しているからです。
現代では女性の社会進出に伴い逆の女尊男卑もまた生まれつつあり、昔と変わったように見えます。
しかし、男尊女卑も女尊男卑も自分が異性よりも突出した存在であるという優越感が奥底にあるのです。
大事なのはそこで如何に自然に相手への差別・偏見を持たず対等に接するかではないでしょうか。
ディリリはそういう理想を体現した主人公であり、私たちもディリリのような穢れなき心を持ちたいものです。