田村の抱える闇は、あのままいたら自分も同じことをしていたのだという思いでしょう。
それを『罪悪』とする自分とあの時の全てを肯定する自分の間にある絶対に繋がらない深い谷。
その谷に流れるのが田村の抱える闇です。
田村が野火の中に見たもの
何度も登場した野火を見る田村のシーン。
田村がそこに見ていたのはかつて自分もいた人間の営みです。
戦場という非日常が日常となった田村にとってそれはもはや憧れの場所でした。
田村はジャングルの中に漂う野火の中に幸せだったあの頃の幻影を見ていたのでしょう。
孤独な田村にとって野火は心のよりどころだったのかもしれません。
野火を見つめる田村の表情はどのシーンでも薄く微笑んでいます。
まるでもう二度と戻ることの無い故郷を遠く眺めているかのようです。
小説と二本の映画
原作では田村は狂人として扱われます。
しかし本作では狂人ではなく闇を抱えた引き籠り作家として描かれました。
できるだけ原作に近い描写を心がけて制作したと塚本監督は語っていますが大きな違いもあります。
小説と映画の違い
一番の大きな違い。それは『神の存在』です。
小説ではその体験を神の怒りと捉えていますが、映画版では完全な無神論を採用しています。
大岡昇平自身、クリスチャンでありながらそれを捨て戦場に赴いているのです。
生還し再びクリスチャンとなった大岡昇平作品は戦争小説というより宗教小説に近い印象を受けます。
しかし市川崑による『野火』も本作もそこには触れていません。
特に塚本版『野火』はむしろ神も仏も無いという描き方をしています。
それはテーマの違いによるものです。
市川作品と塚本作品の違い
大映というバックボーンをもっていた市川崑の『野火』はモノクロですが有名俳優が多く名を連ねています。
映画化されたのは1959年ですから終戦から14年しか経過していません。
当然のごとく原作者も当事者たちも多く生存していましたからそれなりの配慮も必要だったはずです。
現に田村が屍肉を食べるシーンは『食べようとしたが歯が無くなっていて食べられなかった』としています。
一方の塚本版は自主製作という状況のためスタッフも出演者も一般公募されました。
名の知れた役者といえば安田役のリリー・フランキーと伍長役の中村達也くらいでしょうか。
田村の妻役の中村優子、壮絶な永松の森優作、分隊長の山本浩二らの名前も出ますが後はほぼボランティア参加だったそうです。
ちなみに配給の海獣シアターはSHINYA TSUKAMOTOの映画製作会社であり本作のすべての所有権は同社が持っています。