シライサンの呪いの元ネタは第二次世界大戦中に相手国への祈祷での呪殺に失敗したことでした。
つまり国に戦力として利用された挙句、失敗したからと一方的に見捨てて孤独死させたのです。
これはシライサンという幽霊になった祈祷師の女性からすれば存在意義を否定されたも同然でしょう。
またこれは同時に承認欲求が時代を超える普遍的な人間の根源的欲求の一つであることも意味します。
そうした戦時中の悲劇の産物として彼女は位置付けられているのです。
ネット社会と承認欲求
そして二つ目に現代社会自体がネットを通じて承認欲求を満たし合う世界であることを意味しています。
間宮がシライサンの噂話をネットで拡散するか否かで瑞紀と春男と揉み合いの喧嘩になったシーンからも明白です。
上記した瑞紀と春男もお互いの想いを素直に伝えられず苦しむのは奥底で承認欲求があったからでしょう。
他者に認められたいけどそれを素直にいうと自分が我が儘な子供に想われてしまい人の目が気になってしまう…。
そんな現代社会だからこそ尚更のことネット社会自体がシライサンの集まりだと述べているのではないでしょうか。
誰の中にもシライサンは居る
そして究極的に突き詰めればそれは誰の心の中にもシライサンが居ることの証左と捉えられます。
シライサンの死に方はシライサンそのものではなく寧ろ背後から呼びかけてくる大切な人です。
大切な人からの呼びかけに振り向いた時点でもうその人は自らの承認欲求に負けてシライサンとなります。
大事なのはそうしたシライサンの存在を決して特別な怖い存在ではなく身近な存在と知ることでしょう。
そしてその心の中のシライサンとどう向き合うべきか?を画面を通じて問うているのではないでしょうか。
日本社会とシライサン
そしてもう一つ、本作の舞台が日本であるのはシライサンの持つ「承認欲求」との相性が良いからでしょう。
日本社会は「和を以て貴しとなす」ですが、同時にそれが日本人の国民性をシライサンにしてしまっています。
特に「みんなで」とか「一緒に」とか、繋がりを求める風習が存在するから余計に承認欲求が強くなるのです。
だからシライサンは日本社会が生み出した全体主義の負の側面の塊なのではないでしょうか。
そういう意味では日本人は生まれてからずっと死ぬまでシライサンの呪いにかかっているのかもしれません。
そのことに気付くか気付かないかで大きく変わってくるのです。
シライサンに囚われない為に
本作はシライサンの呪いを通して最終的に承認欲求と孤独について考えさせる映画ではないでしょうか。
上記したように日本社会は生まれもってシライサンの集まりであるものと思われます。
そんな時はコミュニティや組織、社会から距離を置いて俯瞰してみると意外に良いのかもしれません。
みんなに認められたいという想いや人の目がその人から自分らしさを奪っている可能性もあります。
シライサンのような承認欲求の塊に囚われないようにするためにはどうすればいいのか?
そのことを瑞紀と春男を中心に一人一人に問う普遍性のある名作として語り継がれるでしょう。