冒頭で十之進が殺した老人は何とろんの父親だったわけであり、彼女は最初から殺すつもりでした。
それまで愛嬌を振りまき、腹ふり党に紛れ込み、更には気があるかのようにキスまでします。
そうやって十之進を油断させ持ち上げておいて、最後に思いっきり落とす構造でしょう。
因果応報という意味合いも込めて、この落差は非常によく出来ていました。
また、ろんを単なる物語のヒロインにしないという作り手の意地にも感服です。
くノ一という刺客
2つ目に、実はこの落ち自体が「カムイ外伝」のエピソード「くノ一」のパロディなのです。
どういうことかというと、様々な刺客達を排除した上で最後に残る刺客という構図が似ています。
主人公が女性に弱いという弱点を利用した構造になっており、これが本来の「くノ一」です。
最後の最後で主人公を刃物で刺殺して様になるのは確かに北川景子位でしょう。
彼女の女優としてのオーラと圧倒的な演技力があればこそ、成立した構図です。
綺麗な薔薇には棘がある、ということわざをよく表現したラストではないでしょうか。
敵の敵が味方とは限らない
3つ目に、敵の敵が味方とは限らないということを意味しています。
勢力図をまとめてみると、十之進はどこにも属さない第3勢力でした。
一方のろんは腹ふり党という反体制側に属していたのです。
すなわち、勢力図の相関だけで見ると、2人に因縁はありません。
しかし、だからといって完全な味方というわけでもないのです。
最後の最後で私情に流された十之進の愚かさ・軽薄さを批判しているのでしょう。
権力側が滅ぶ理由
本作を見ていくと、時代劇を通して現代社会において権力側が滅ぶ理由を示唆しています。
権力側が滅ぶ理由はとても簡単で、民意によって裏切られてしまうからです。
そしてそれは江戸時代においても、近現代においても変わってないことを意味しています。
確かに群集心理は腹ふり党などという詐欺に踊らされるほど愚かしいものでしょう。
しかし、上手に活用することが出来れば、これ程頼もしいものもまたありません。
政治も国も結局作っていくのは「人」なのであり、世の中を作っていくのは民衆です。
そのことを念頭に置かずに胡座を欠いて政治を行ってはいけないということでしょう。
個人が国家を超える時代
本作を見ていくと、個人が国家を超える時代が来ることを予言しているようです。
しかし、それは同時に自己管理・自己判断が出来なければいけないことも意味します。
十之進は個人としての力量は優れていながら、最期は油断でろんに殺されました。
個人の時代が到来しても、独立を果たして生きることはそう簡単なことではないのです。
ポストモダニズムの長所も短所も時代劇のパロディを通して非常によく表現されていました。
国家の為に個人があるのではなく、個人の集合体が国家を作っていくのです。