安藤が犯した過去の罪は確かに消えませんが、それを口実に人を脅す免罪符にはならないないのです。
ここで上手いのは安藤が殺害に至るのに同情できる理由・事情が配慮されている所にあります。
安藤はもしかしたらその脅しがなければ、宇津木夫妻を殺さずに済んだかも知れません。
運命の歯車が少し狂うだけで恐ろしいことになるのを本作はしっかり描いてくれています。
三上・光男との決定的な差
2つ目に、この真犯人・安藤と冤罪にされた樹原の関係は三上と光男の関係にやや似ています。
安藤は恐らく三上と光男の暗黒面を両方とも持った人物ではないでしょうか。
まず三上と似通っているのが相手に対して明確な殺意を持っおり、また同情できる背景があることです。
そして光男と似通っているのは殺意を具体的に「殺人」という形にし、冤罪を仕立てる所にあります。
三上と光男の中にある「悪」を煮詰めて体現した本作における真の悪党ではないでしょうか。
だからこそ、それを裁くことが出来るのは刑務官の南郷だったと推測されます。
南郷が語ったことの具体化
3つ目に、終盤の展開は南郷が語ったことの具体化だったのではないでしょうか。
すなわち、殺意と殺人の意味の違いが三上・光男・安藤を通して表現されています。
三上と光男は「殺意」はあったもののギリギリの所で「殺人」は犯していません。
しかし、安藤は「殺意」があった上に「殺人」「冤罪」という形で実行してしまいました。
殺意と殺人の決定的な差は「実行に移すかどうか」にあるのです。
南郷が語ったことが伏線となり、終盤で物語として大きな意味を持つに至りました。
殺人と死刑・冤罪の共通項
考察を重ねていくと、殺人と死刑・冤罪にはある1つの共通項があることに気付かされます。
それは「思考停止」であり、考え続けることを辞めた人間の敗北の瞬間を意味するのです。
マニュアル通りに死刑執行を行うこと、事情もきちんと調べずに相手に濡れ衣を着せてしまうこと。
これらは話し合いの余地が通じない憎たらしい相手だから殺すのと何も変わりません。
法律によって杓子定規に人を裁くことはそれ自体が既に思考停止の証左ではないでしょうか。
人間が他の動物と違う所は理性をもって物事を客観的・論理的に考えられる所にあります。
しかし、その人間が人を裁く行為を無批判に実行することは理性を捨て去るも同じでしょう。
そのことを三上達の生き様を通して再考させるに至ったのが本作の神髄です。
真実を見極める目を持つこと
いかがでしたでしょうか?
本作は社会が持つ死刑制度をはじめ刑法が持つ問題点の本質を浮き彫りにしました。
また、それを通して真実を見極める目を持つことの大切さを説いているのです。
1つの殺人事件や死刑を取っても、その奥には様々な事情や理由が絡んでいます。
大事なことは表面上の切った張ったに惑わされず、自分の目で見て確かめることでしょう。
人の命を扱う側にいる人達がその権力を無自覚に振りかざすことがあってはなりません。
多くの国が死刑廃止に至ったとこも突き詰めると、そこに理由があるのではないでしょうか。